old sights old sounds

 おもいおこせば70年代から80年代半ばにかけてアンダーグラウンド方面の精神的指標になってた「速度」とか「ズレ」(踏みはずし、というのもあった)といった感覚は元々60年代後半あたりのジャズ論争が起点でしたわな。演奏行為それ自体を物神化、とまでは言わないけれど少なくても第一義として語るのは当時のジャズ批判の常套手段だったけどそれでロックを、と言った時点で軋轢が生じるのは火を見るより明らか。
 
 ロックはソロイストの集団ではないし曲のフォーマットを逸脱していく、前と後ろをずらしていくことによって加速していく構造も持ってなかった。なのでビーフハートみたいなやり方を発明してみたり、ノイズと肉体性の自爆を伴う短距離競走に賭けたり(これはジャズだよね)、全然別個の方法だけど、周辺が曖昧になって肥大していく私小説に向かったりしたワケでしょ。他にも色々あるけど。まあエンターテイメント性の方が強いポーツマスシンフォニアみたいなのではなくアレンジの段階で慎重にネジを外して世界との距離をとるやり方もあるにはあったがその周到に用意された悪意もコピーにコピーを重ねられるうちに漂白されて芸として受け継がれていくようになってしまった。でもそれもロック的といえばロック的だったんだよね。あくまで「的」ね。
 そういえば昔、頼まれた友達のレコードのライナーノーツに「ロックの幻想」ってタイトル、こっそり付けた事を思い出した。知ってる?
 
 で、最近なにかないんですかもう、というとなんだかスワンプに電子音入れてみましたとか、どっかの本に書いてあったようなセンテンスをそのまま歌うとか、こんなレコード知ってる?的な、きのう知った事を今日やってみて、どうよこのセンス、みたいな本当にしょーもない、本来の意味でのコドモしか出てこないみたい。このあいだも言ったけど知に対する恥じらいがないのかなあ。見て来たようにモノを言う20代はもういいから10代からもっと理解不能なものがでてくればいいな、なんてね。明日の議題ね。

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