phaedra

若い頃、自分にとって音楽とは好きなレコードを部屋で心ゆくまで味わう事だった。決してライブを観にいそいそと出かけて行ったりそのミュージシャンの私生活を探索したりすることではなかった。もちろん興味はほぼ洋楽オンリーだったのでライブに接する事もあまりなかったが、もともとライブに対する渇望なんてのも無かったようだ。それは僕にとっては「確認」でしかなかったからだ。
スーサイドも、ピーター・ハミルも、ジョナサン・リッチマン、アレックス・チルトン、ルー・リード、ジョニー・サンダース、ケヴィン・エアーズ、ブルー・チアーもミック・ファレンも確認だった。
肉体性、ということに対して不感症だったのかもしれない。ドロドロしたもの、血なまぐさいもの、誤解を恐れずに言えばサブカルチャーと言われるものの大部分を覆っているある種の被害者意識をタテにしたような空気や表現も苦手だった。そういうものにはずっと無関心だったし無関係だったとおもう。
とにかくどこかに属していたくなかったのだ。そうすると出来る事はただ象徴や集団からひたすら逃げ続けることだけだった。いま自分が居るのであろう場所からも遅かれ早かれ逃げ出すことになるだろう。
エロスもタナトスも、うすーい均一な透明性の中に溶解してしまったような、そんなぽかーんとした場所、それが何かはとっくにわかっているのだが。

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