74年に日本盤が発売になったピンク・フロイドの初期の2枚をカップリングした「ナイス・ペア」のライナーで、シド・バレットについて渋谷陽一は夏目漱石を引き合いに出し、漱石は自己のノイローゼと対峙しつつその苦闘によって名作を産み出したがバレットはその狂気と馴れ親しみすぎて違う世界に行ってしまったのだと指摘している。この時期、バレットは既にドラッグの後遺症で廃人と噂され伝説好きなロックジャーナリズムの格好の餌食になっていたので彼に対する評論は多かれ少なかれサウンド面というよりも、こういったアーティストのメンタリティー崩壊を主題としたものが殆どだった。ほぼ同時期、間章はブランショの踏みはずしを援用しつつバレットをそのサウンド面から評論したりしていた記憶があるけれどあまり人目に触れることはなかったはず。
バレットのファースト・ソロがリリースされたのが70年、ほぼリアルタイムで日本でも東芝音工からリリースされたのだが(僕は当時小学生でそんなことは知る由もない)、その初版LPの帯には「ピンク・フロイドの創始者、シド・バレット遂に登場!」とある。同年後半にはフロイドの世界的な出世作となる「原子心母」が出版されるのだがこれはその数ヶ月前にリリースされている。勿論この時点でこのアルバムは「英国の先鋭的なアンダーグラウンド・グループのひとつ」でしかなかったピンク・フロイドを脱退した元リーダー、シド・バレットの純然たる新譜であり、いまだ数々の伝説にも彩られてはいない。
その日本盤初版ライナーの執筆者はこれ以降音楽雑誌等でついぞ名前を見た事の無いひとなのだが興味深い記述がある。ご存知のとおりこのアルバムにはジェームス・ジョイスの”Golden Hair”の詩がそのまま使われた曲があり、そのジョイスとバレットの親和性やバレットの曲の特異性について言及している部分があるのでかいつまんで要約してみると、「ジョイスの”フィネガンの宵祭”に於いては文学を音楽に近づけようとする実験が試みられていて、これは意味と音韻とリズムの集成をつくる新造語によって書かれている。シド・バレットの大部分の曲はメロディックではなく、音楽的に言えばモード手法的な曲の作り方で、コード進行というよりスケールだけをたよりにしている。ここで聴かれる音楽の重要な部分は、リズムと詞の関係だけと言っても過言ではなく、言葉の意味と音韻とリズムの中から自然に出て来るメロディーをそのまま曲に作り上げている点でジョイスとの接点を見ることが出来る。近年の(注:’70の頃)ロックはモーグ(シンセサイザー)など電気的な音の加工や過剰なエフェクトでサウンドに変化をつけようとしているものが多くみられるがそれは本質的なサウンドの改革にはなりえない。シド・バレットの音楽への観点はそれらとは全く違っていてリズムと音韻の関係性による改革なのだ。1970年にこういった方法論を持った音楽が出現したという事実を記録として残しておくことが重要なのではないだろうか」という具合だ。 実際の記述はこの年代の新しいロックの動きや傾向などにも及んでいて、引用した部分だけだとけっこう乱暴な推論にも見えるし、全面的に肯定出来る訳ではないが今日までバレットの作品をリズムと音韻から解読しようとした評論はあまり読んだ事がなく、その意味でも、またリアルタイムで書かれた、という事実もあってこのライナーはいまだに鮮度を失っていない。そしてこの時代の洋楽ロックのリスナー、音楽雑誌の読者のほとんどが10代半ば(中学生)から20代前半(大学生)ぐらいまでだったことを考えると(なにせdon’t trust over 30の時代だし)更に興味深い。当時このアルバムを買ってこのライナーを読んだ子供達はどう感じただろうか。
僕が読んでいて面白いと思うものは、近年やたらと乱発されている、それぞれの作品が歴史的に俯瞰され考察され細分化されカタログ化されキレイに陳列されたディスクガイドのようなものではなく、まだ海の物とも山の物ともつかない異形の音楽が出現したときのそれぞれの時代に於ける音楽ジャーナリズムの反応なのだ。古くはプレスリー、ビートルズ、ディランからサイケデリック、ハードロック、プログレ、ジャーマンロック、パンク、ニューウェイブからノイズに到る、つまりロックの発生から死(と断言する)まで、彼等はそれぞれの時代にどう扱ってきたのか。
お手軽な形容詞だらけの印象批評、メディアやマーケティングに絡めた時代解釈ばかりが目につく昨今、こういった文章を読み返してみると、ノスタルジーではなく却って新鮮に感じてしまう。