月別アーカイブ: 2017年6月

MM四方山話

「あのさー、例のウチで出すサンプラーCD、音源集まったんだけどタイトルなんにしようか」
「んー、どいうのがいいの?」
「やっぱ東京のバンド集めてるから”東京”って入ってるのがいいかな」
「そうね~何かあるかな」と僕はエサ箱のレコードをめくりながら
「サイケのコンピでTEXAS FLASHBACKていうのがあるから、TOKYO FLASHBACKとかは?」
「あー、いいねえ!じゃあそれで」
「いや、でもこれって昔のレア音源を回顧するって意味もあるからちょっと違うかな~」
「いや、意味なんてどーでもいいんだよ(笑)」

ということでタイトルは決まり、ジャケットのデザインなどは確か松谷の発案だったはず。

しばらくして

「ここにさー、TOKYO FLASHBACKって書いてよ」とペンと紙を渡された。
「こんな感じで?」
「あー、そうそう。いいんじゃない?」
「いや、もうちょっとちゃんと書いた方が良くない?」
「いやいや、いいいい、ジャケなんてどーでもいいんだよ(笑)」

僕の擲り書きしたヘタな文字はそのままジャケットにプリントされ、その後ずっと使い回されることになる。

 その表ジャケにあるように当時のモダーンはカウンター内にもカウンター前にも灰皿が置いてあり、今では到底考えられないことだが、店員は喫煙しながら接客していた(お客も吸う人が多かったが生悦住さんは非喫煙者)。灰野さんは「オレがタバコ嫌いなの知ってて吸ってるな~、くそ~」と手にしたシングル盤でパタパタと紫煙を扇いではしゃいだりしていた。
年末、散らかったレジ周辺を整理していたら焼き鳥の串が大量に出土したこともあった。お客が差し入れで持ってきたビールと焼き鳥の残骸だった。
ある日、見かねたお客の一人が生悦住さんに「このあいだ店員の人がビール飲みながら店番してましたよ」と言いつけたらしいのだが「あ~、松谷くんでしょ、しょうがないね~はははは」で終わってしまったという。とにかくユルい店だった。

 それ以前、80年代前半のモダーンはどこかで言われてるようにシビアでホンモノ(?)の音楽のみに特化した店ではなかった。僕はその頃は単なるお店の常連の一人だったがパンク・ニューウェイブ系の輸入盤新譜も大量にあり、当時飛ぶ鳥をおとす勢いだったデザイナーズ・ブランド、Y’sやギャルソンのファッションショーの音楽担当の人がショーで使用する「まだ誰も知らないような最先端のレコード」を定期的に探しに来るようなお店だった。他ではほとんど扱ってなかったジャーマンニューウェイブの新譜もマイナーレーベルものまで揃えており、それを探しに来るミュージシャンやライターも大勢いた。DAFはもちろん、パレ・シャンブルグやリエゾン・ダンジェルーズなどはその頃のベストセラーだった。UK、ヨーロッパのネオアコやマイナーなエレポップ系ですら揃えていた。
 生悦住さんはそういったパンク以降、ポストパンクなどの新しい音楽にも寛大でラモーンズの初来日はまだ小学生だった娘さんを連れて行ったけど最高だった、という話は何度も聞かされたしジョブライアスは聴き込むとセカンドの方がいい、とかワイヤーが好き、とか昨今流布されている「アングラの極北」的なイメージとは随分かけ離れた部分も少なからずあったと思う。その頃初めてブート再発されたビッグ・スターのファースト、セカンドは、都内では一番枚数売ったはず。アイヴァースの追悼盤NIRVANA PETERも85年のリリース時に大量に発注してあっという間に売り切ったそうだ。
 ドイツのWORKSHOP(CANみたいなバンド)、デヴィッド・ピールの自主レーベル、ORANGE RECORDSやJANDEKは本人に手紙を書いて直接仕入れていた。当時まだ誰も知らなかったJANDEKのコーナーがあったのはモダーンだけだった。それらはすぐに常連の間で話題になり、売り切れては再注文を繰り返していた。(余談になるが90年代も終わり頃、モダーンが取引していたラッツパックというカット盤・廉価盤専門の輸入卸売業者のリストにMUSIC MACHINEのTURN ONが載っていて、生悦住さんは「アメリカ盤って書いてある。まあ再発盤だろうけど安いし何枚か仕入れてみるか」と注文し、届いたらなんとオリジナル、それも全部シールドのmono盤だったので慌ててかなりの数量を再注文、「もうないだろうな〜」と言っていたらちゃんと注文した枚数が届いたことがあった。元々どこかの倉庫にデッドストックで眠っていたものらしくシュリンクどうしが張り付いて全体がブロックのように固まっており、1枚1枚ペリペリ剥がさなければならなかった。すでに結構なプレミアが付いている盤だったが店頭では「いっぱい入ったから」と普通に¥2800ぐらいで出していたと記憶する)

 夜8時に営業が終わると生悦住さんは店内でダラダラしている僕ら常連と店員を引き連れてよくご飯を食べに行った。その頃生悦住さんも僕も飲めなかったので普通にご飯を食べ、松谷やその他飲める人たちは酒とおつまみ、みたいな感じで飽きもせず音楽とかレコードとかプロレスとかの話ばかりしていた。ほとんど生悦住さんのおごりだったと思う。業界自体の景気もまだ良かったのだろう。

 生悦住さんの、とりあえず聴いてみないとわからないから、という姿勢は徹底していて、例えばミュージックマガジンで褒められてるもの、話題になっている新譜はジャズ系だろうと民族音楽であろうとヒップホップだろうと必ず自分で1枚買って聴いていたがそのほとんどは翌日には「これ、ひどかったね~」の一言とともに店頭に中古¥500で並べられることになる。「え~、こんなの聴かなくてもわかるじゃない」と言うと「いや~もしかして本当に良かったらマズいじゃない。一応、買って聴いとかないとね」と言うのだった。

 かつてモダーンの常連だったという人たちにとっても時代によってお店のイメージは全く違うだろう。ある人にとってはニューウェイブ、インダストリアルなど当時最先端のものを扱っていたお店、ある人にはインタリアンロックを中心としたプログレの高額廃盤を取り揃えていたお店(これは今となっては知る人も少ないが、のちにエジソンに行ったウエノくんがバイトしていた頃で、本当に壁一面がプログレ超高額廃盤だらけ、しかもほとんどに”売約済”の紙が貼られていた時代があった)、あるいはニューヨークパンクとその周辺に強いお店(小山くんの時代)、またはサイケやガレージに異常に詳しいお店、ザッパのレア盤を探しに行くお店(お客で有名なザッパコレクターが何人かいた)、マイナーな日本のロック・フォークや自主盤、フリージャズに強いお店、という具合に。どの時代に通っていたか、何を求めてモダーンに行っていたかによって印象は全く異なるはずだが、実はその時々の店員の趣味趣向に負う部分が大きかったのだと思う。

 音楽業界全体が急速に疲弊し始め、明大前の区画整理で店舗を一旦閉めることを余儀なくされた前後から少しづつお店を取り巻く雰囲気も違ってきたような印象があるが、個人的にはその頃、またビルがマンションになって再開店してからもお店に遊びに行くことは稀になっていたので事情はよくわからない。

 
 毎年4月になると明大の新入生が表の「輸入レコード」という看板に惹かれてゾロゾロひやかしに入ってきて「マイケルジャクソンないですか?」とか「クラプトンはどこにあるの?」とか訊かれるのに嫌気がさし、メタルマシンミュージックを大音量でかけて追い払ってしまうような特異なお店であり店主であったので毀誉褒貶相半ばするのは当然として、モダーンミュージックというショップとPSFというレーベルではそれぞれが持つイメージ/実態においてもかなりの開きがあった。僕がこうして書いたり語ったりできるのはモダーンというお店にまつわることのみであってPSFについてはごく初期を除いてほとんど語るべきコトバを持ち合わせてないことを白状しておく。

Share Button

幕間

 客入れはチェット・ベイカー・シングス、演奏終了時はタイニー・ティムのWhat The World Needs Now Is Love、これは80年代の最初のライブの時から決めてあってほとんど変わらなかった。
ただでさえ少なかった客の中でそれに気づいた人がどれだけ居たかはわからない。

 それは僕(ら)の立ち位置、そしてどこからやって来たのかをしれっと提示するある意味わかりやすい暗号としてあったので人任せにして無関係な曲を垂れ流すわけにはいかなかったし、その間に挟まれた僕らの演奏はそれを証明せんとする手立てのひとつだったとは考えられるが、結局それ以上でもそれ以下でもなかった。
と、今となっては思う。

Share Button

from room 109

at The Islander on Pacific Coast Highway

Share Button