月別アーカイブ: 2016年12月

end of a year

 この人(たち)がこれをやる必然性があるのだろうか?と、いうのは音楽を聴いていてよく思うことで、ジャルに限らずそれは特に新しいものに顕著だけれど、古いものでもその前後を辿っていくとそういった疑念が湧くことがあるので時代の新旧を問うものではないのかもしれない。
 僕の言う必然性とは「こうならざるをえなかった」「これしか他に方法がなかった」に近いニュアンスなのだが、音楽も長くやっていると煮詰まってきて「何か別のこと」とか「あんまり他人がやってないこと」とかに活路を見出そうとしがちで、新しいモデル、スタイルを見つけるとすぐやってみたくなったりするでしょ?ミニマルやノイズ的前衛風味を付け加えてみたり民族音楽に頼ったりジャズ理論をかじってみたり。でもそういった自然体では無い感覚をモノにするには当然一朝一夕にはいかないわけでそれを未消化なままやってしまうと一般には面白がられても、イヤな言い方だけどそれなりに聴き分けられる感覚や経験値を持った人からはたちどころに峻別されてしまう。それならサンプリングの方が手法や思想を伴いわない分まだマシだ。  
 生煮えのスタイル剽窃ほどみっともないものはない。「資格」という古びたコトバがまだ有効だとしたら音楽に限らず幾多の表現方法には「それをやる資格」も必要な気がする。もちろんそれは自分で自分を資格認定出来るようにならなければ意味がないのだけれど。

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部活

  暮れも押し詰まったというのに迷えるオヤジが4人、いつもの新宿Tに忘年会よろしく雁首そろえて集合。定期的に開かれているとはいえ、4人が揃うのは夏の原村出張会議以来。その折に会議名が付与されたがどうにもこうにも発語しづらく、集まる人数によって「首脳会談」「本会議」「有識者会議」などと名付けられたもののこちらも使われたことはない模様。
  
  さて、いずれも音楽業界ではそれなりに知られており、知識と経験の豊富さはもちろんキツい一家言を忘れない御歴々なので毎度毎度その議論におけるハードルは上がるばかり。もちろんここでは今年世間が褒めちぎった作品だろうが近しい友達の作品だろうが果ては作者を眼前にしていようが躊躇なく俎上に挙げられ一刀両断にされた後、即座にゴミ箱にぶち込まれる。お互い褒めあって気持ち良く、などというヌルさは誰も持ち合わせていないからだが、今夜も年末の音楽誌では本年度の名作とされた盤が次々と批評の対象として晒されていく。
  夜が更けるにつれ話は観念論から80年代~現在に至るサブカルチャー論、日本の音楽ジャーナリズムの酷さ、ちょっと期待してたけどダメだった人の話、しまいには「ストーンズで好きなアルバムは」とか「同じ黒人なのにジミヘンとマルコム・ムーニーとスライの差異とは」などと、いにしえのロック喫茶もかくや、というべきオヤジ度100%の議論に場は更にヒートアップ。お客がはけるとD店長もたまらず参戦し泥仕合を繰り広げながら毎度のことながら気づくと朝4時半。結局「近い将来、一顧だにされていない戦前ブルースや初期のR&Rは、やんちゃ系ではなくアタマのキレる少数の若者らにカッコよくクールなものとして認識されはじめ、手法やスタイルの模倣ではなくその本質や感触だけを拠り所にした音楽を作ろうと模索する奴らが出てくるだろう」という結論に落ち着いた(笑)

  店じまいを待って睡魔と闘いながら向かうのはおなじみのカレー屋。会議終了後、ここでカツカレーを食べるのがノルマとされているのだ。まるで男子校の部活のシゴキのようでもあるが、朝5時ぐらいに素性の知れないオヤジがわらわらと入店し「カツカレー五つ」と注文しカウンターで一列に並んで一心に食べている図はまことに壮観である。酔いも覚め腹も朽ちたオヤジ5人は若干の胃もたれを感じつつ1月の新年会での再会を約束して三々五々タクシーに乗り込み帰路につくのだった。

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路傍の石

  60年代ガレージパンク・コンピレーションの嚆矢として語り継がれるNuggetsの日本盤が発売された。米60年代ガレージ、サイケを語る上で基本中の基本であるこのアルバムが国内初CD化とはいささか意外な気もするが同時に日本独自編集のVol.2、Vol.3が発売されるのは快挙と言っていいかもしれない。
  ご存知の通りNuggetsは、後にパティ・スミス・グループで彼女を長きにわたり支えて行くことになるミュージシャン兼音楽ジャーナリスト、レニー・ケイが編集し米エレクトラから72年という比較的早い時期にリリースされた。その後70年代末以降のPEBBLES、BOULDERS(鉱物的なイメージが多いのは玉石混合の意味合いでは?というのは岡田くんの説)など数え切れないほどの多様なガレージ・コンピのコンセプトに多大な影響を与えたのも周知の事実だろう。オリジナル発売当時はハードロック、プログレ、フォークロックなど日本でいうところの所謂ニューロック・アートロック全盛期でその意図はほとんど理解されず、セールス的にも芳しくなかったようだが76年にグレッグ・ショウの尽力によって米サイアーから再発された時には機も熟していたのか、折しも各地で勃興し始めていたパンクムーヴメントに少なからず影響を与えた。それは60年代のローカルなガレージパンクに単なるオールディーズとしてではない特別な意味合いがあるということを多くの人々が感じ取り始めた瞬間だった。
  
  今回は前述のようにオリジナル・エレクトラ盤のストレート・リイシューと共に日本編集の続編2タイトルがリリースされたのだが、大手レーベルからの正規盤ということで原盤の権利関係がクリアできず収録できなかったタイトルが山のようにあったということは旧来の知己で今回の編纂者である伊藤秀世氏のライナーにつまびらかだ。その事情もあってかVo.2とVol.3はそれぞれ米英混合というやや変則的な編集になっている。しかしながら79年にヨーロッパで100枚限定でリリース(77枚説もあり。もちろん非正規盤)、その後何回も再プレスされることになるアシッド・パンク系のキラー・コンピ、Acid Dreamsの冒頭に収録され我々の度肝を抜いた(当時はLitterの変名と噂されていた)White LightningのWilliam、The DeepやFreak Sceneのラスティ・エヴァンス関係でのちにCrampsやNomadsを始め多くのカヴァーヴァージョンを産んだThe Third BardoのI’m Five Years Ahead Of My Timeなど名曲の数々が正規収録されたのは、快挙と言って差し支えあるまい。もちろん、執念のCharlatans国内初登場も。
最近はめっきり少なくなった、ライナーノーツの本道とも言うべき手間と時間をかけたサーチがしっかり行き届いた入魂の解説も一読の価値あり。

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tick tock nightmare

 88年、アムステルダム。初めて降りた中央駅は薄暗く、数人の浮浪者が道端に寝転がっているのか死んでいるのか。タクシーを拾うまでのわずかな時間に黒人を含む数人のプッシャーが「要らない?安くするから」と声をかけてくる。grassではない、snowだ。そういう目的で来たわけではないので丁重にお断りする。スイスからの列車のコンパートメントで隣り合わせた老夫婦に「アムスって危険だと言われてるけどそんなでもないよね?」ときくと、首を横に振って真顔で一言「dangerous…」と言われた時の感覚が蘇ってくる。急いでタクシーを拾い、予約してあるホテルの名前を告げた。

 当時1UKポンドは300円以上、それに比べるとダッチ・ギルダーはものすごく安く感じた。老舗で底知れぬ在庫量を誇るレコードショップConcertoで面白そうなアルバムを何枚か見つけた後、無造作に床に置かれたバーゲン・ビンの箱にMark Glynne and Bart ZwierのHome ComfortのLPが何枚も打ち捨てられるように突っ込まれていた。この80年にアムステルダムで自主制作された(レーベル名がDivorced Recordsという..)アルバムは、大学時代、輸入盤店の新譜コーナーで見つけてから僕の中では特別な位置を占める作品だった。もちろん特段プレミアが付いているとかマニアが探しているとかそういうシロモノではなかったが日本円にして1枚数百円、信頼できる友達へのお土産としてそれらを買った。

 それから10年ぐらい経って。知り合いだったアメリカのレコードディーラーの家に遊びに行き、朝食をとった後チェックしていたシングルの箱の中で初めて見るMark Glynne and Bart Zwierの7インチを見つけた。裏ジャケットに81年と記載、ということはアルバムの翌年だ。「how much?」「$10」高いな、と思ったが今後見つかる可能性も無さそうだし買うことにした。
 東京に帰ってから早速針を落としてみるとアルバム冒頭の曲が、いかにも80年頃のポストパンクという風情にアレンジされたヴァージョンで収録されており面食らってしまった。A面のフェイドアウトがB面の頭にまで被ってしまっている。ジャケットデザインも投げやりだし、これはもはやこれまでだったのかと残念な気分になってしまった。

  年を経て最近久しぶりにこのシングルを聴いてみたらこれはこれで終わりにしたかったのだろうな、と思えるようになっていた。別に僕が寛容になったわけではないけれど。
アルバムでは、意味深なフロントカバー写真、バックカバーにはアントニオーニの「夜」からのカットが流用され、長大な歌詞をびっしりプリントしたインサート、半切れになった”impriting is a curious form of early learning”の文字、曲のタイトル、レーベル名まで、彼らと他者との関係性をテーマとした透徹した美意識が感じられたがこのシングルでは全てが真逆に作られている。では彼らにとって「終わり」とはなんだったのか。

 このHome Comfortのアルバムも決して名盤や推薦盤の類ではない。たまたま、80年、アムステルダムでひっそりと作られて、そして僕はそれを偶然同じ時代に受け取ってしまった、それだけのことだ。もちろん、すべての音盤はそのようにして存在している、と言ってしまえばそうなんだけど。

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once upon a time

 師走を迎えたにもかかわらず一向に忙しくないのもどうかと思うがやはり、というか今年は何もしなかった。身辺整理よろしく持ち物を処分したりは継続しているが新たに補充されるモノの方が多かったりで全く身軽にならない。
 そんなわけで新たな一冊、橘川幸夫氏の「ロッキング・オンの時代」を読んだ。72年のROの立ち上げからの約10年の記録。僕がROを読んでいたのは中学から高校の途中までの数年で、最初に買った時(中学生だった)はまだ10号にも満たず、定価¥180ぐらいでペラペラのミニコミ誌のようだった。内容的には今考えると60年代末から70年代初頭の雰囲気を残した、僕らより一世代上の、ロックと思想を結びつけるというかロックを思想として捉える論評が大半を占めていた。そういった傾向は当時(72〜3年)のロック・ジャーナリズム一般にもまだ残っていたけれどNMM(ニューミュージック・マガジン、今のミュージック・マガジン)が総体や現象としてロックを捉えていたのとは対照的にROは作品と個人(リスナー)の共同幻想(と言っていいかどうかは判らないが)に立脚していたように見えた。
 雑誌の中核だった渋谷、岩谷、松村、橘川各氏の文章はそれまで読んでいたNMM、MLや音楽専科とは違い、やや(いや、かなりか)観念的すぎるきらいもあったがそこが当時は魅力的だったし何より4人の文体が独特で、全く重なることなくそれぞれ孤立していたのが特徴的だった。他誌では酷評されていた初期のドイツロックなどにも全く別の角度から新たな評価を与えていたし大類信によるデザインの表紙も書店では異彩を放っていた。岩谷・松村らが製作したイターナウの自主カセット(千野秀一も参加していた)も買って、彼らがなぜだかNHKの若者向けテレビ番組(「高校中退」とかのテーマだったような)に登場し1曲演奏したのも観ている。(余談だが件の自主カセットについていたポスター(無地のグラデーション)が同時期に中野レコードが作ったKaruna KhyalのLPに付属していたポスターと同じだった記憶がある。どちらも手元にはないので確認できないが、もしそうだとしたら何か関係があったのだろうか)
 だが高校に入ったぐらいでパンクが勃興し、創刊号から読んでいたロックマガジン(初期数冊はROの影響が見え隠れしていた)が76年にニューヨークとロンドンでまだアンダーグラウンドだった初期パンクムーブメントを取材して誌面も一新した頃、惰性で買うようになっていたROで「パンクって要するに理由なき反抗でしょ」みたいな記事を読み、程なくして購読をやめた。大量にあったバックナンバーは大学の頃にまとめて処分してしまったのだが実家に初期の号が数冊残っていた。3号の表紙は真崎・守+宮西計三とあるので後に有名になる宮西氏がアシスタントをしていた時期のものだろう。ご存知の通り宮西氏は80年前後に三流劇画ブームで浮上し、宮西計三バンドを結成、WH結成前の栗原と松谷がギターとドラムスで参加していた。ちなみにその当時のバンド・マネージャーはエロ劇画雑誌編集長で初期フールズメイトでドイツロックやオカルティズムの記事を集中的に執筆しアシュラ山本の異名をとったやまもっちゃんこと山本雅幸氏。やまもっちゃんを媒介として栗原はその後、北村昌士のYBO2結成に関わることになる、というのは内輪の話。

 閑話休題。というわけで近年までROがまだ存在する、まして邦楽ロック専門誌にも枝分かれしてそちらの方が業界で影響力がある、などということもほとんど知らなかった。興味がなくなる、というのはそういうことで本屋の一番目立つところに置いてあってもまったく目に入らなかったのだろう。いずれにしろこの「ロッキング・オンの時代」に書かれている40数年前(ロックとは洋楽だった時代だ)とはロックの意味性もそれを取り巻く世界もまったく変容してしまった。
しかしSNSやネットでタダで入手出来る情報(それも不確かな)よりも、こういう当事者の証言がまとまって一冊になったものの方がはるかに面白いし対価を払う価値があるよね。

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