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 80年代半ば、耳ざとい友人や輸入盤店で話題になり始めたレコードがあった。イギリスの4ADからリリースされたThis Mortal Coilという女性ヴォーカルを含むユニットで、ティム・バックレイやビッグ・スターのカヴァーをやっているという。ジャケットのアートワークの耽美さが苦手だったがとりあえずシスコだったかオパス・ワンだったかで購入した。
 一聴して「コレじゃないだろ」という嫌悪感にも似た感情を覚えた。ティム・バックレイは「Song To The Siren」、ビッグ・スターは確か「Holocaust」と「Kangaroo」だったが、そのカヴァーの出来不出来はともかく、その選曲に拒否反応を起こしたのだった。
 原曲は今も多くのリスナーに愛され続けている名曲なのは認める。しかしそこだけがピックアップされることによって彼らのイメージが決してしまうような気がしてならなかったのだ。実際、このアルバムは当時日本でもすごく売れたしこれでチルトンやバックレイ、ロイ・ハーパーを知った人も多かったと思う。
 「傷つきやすい繊細さ」や「無垢なナイーブさ」をこよなく愛するミュージシャンやリスナーは今も数多いだろう。そういう捉え方、そしてどうも近年感じる「サードが好き」的な風潮の端緒と感じたのがこのアルバムだった。例えばビッグ・スターはサード、ヴェルヴェッツもサード、ラヴはフォーエバー・チェンジスなどなど。
そこには、その前にVUならメタリックなゴミのように歪みまくったWhite Light White Heat, バックレイなら寒気がするようなLorca、チルトンなら(後になるけれど)個人が解体していく過程を自らドキュメントしたかのようなLike Flies On Sherbertがある、という当たり前の文脈がすっぽり抜けているような気がするのだ。もちろんそれを承知している上で、という人も多く居るというのも判ってはいるのだが。
  キレイなものだけ見ていたいとか自分のナイーブさだけを標榜するような人は、だいたい会って話してみるとやたらとイケ図々しいヤツだったり計算づくの無邪気なそぶりだったり根拠のない被害者意識の塊だったりして疲れることこの上ない。まあ僕のようなひどく鈍感で繊細さのカケラもないと常々自負している人間にはわからないだけなのかもしれない。きっとそうなのだろう。

  83年から84年頃、This Mortal Coilや同じ時期に出た他のレコード(インダストリアル系も含む)を聴いて、数年続いた嵐のようなパンク〜ニューウェイブの季節が終わり、再びプログレ的な様式美の世界(インダストリアル系だとジャーマンのタンジェリンのAtemとかZeitの頃みたいな形の抽象)に回帰していくのだろうなとぼんやり感じたあたりから輸入盤店に行って新譜を買うということをしなくなってしまった。そして同時に自分が体験できなかった60年代の未知の音楽を中古盤店で探し求めるようになっていった、というわけなんです。もう20代も半ばにさしかかろうとしていて、こりゃ自分でちゃんとやったほうが早いのでは、などとも思い始めていた頃でした。

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chance meeting

 インターネット、SNS全盛の現代においても未だにどこをどう探しても出てこない、埋もれてしまった情報や記述、証言の類は無尽蔵に存在するということはご存知の通りで、サイバースペースの中に存在するのはそのうちほんの一握りの事象でしかない。それは何も過去のものに限ったことではなくたとえば先週発売された雑誌を手に取らなければ永遠に知ることのない情報や事実もいくらでもあるだろう。活字媒体、いわゆる紙モノの重要性は以前にも増して大きくなっているように思える。

 モダーンミュージックが閉店直前ぐらいまで不定期に発行していたハウスマガジンのようなG-Modernという雑誌があった。創刊したばかりの91年ぐらいに頼まれてレコード・レビューやちょっとした記事を書いていたことがあるのだが、「埋もれた名盤」というコーナーにVirgin Insanityのアルバムを紹介したことがあった。以前のブログにも書いたことがあるが、これは71年に米テキサスで200枚プレスされた自主制作盤で、その頃モダーンではそのコーナーに取り上げられていて聴いてみたいけれど入手が難しい、というものについて、希望者にはカセットにコピーして配布するという気前のいいサービスをしており(生カセット代のみを負担してもらう仕組み)、このアルバムにもそれなりに反響はあったようだ。
  それから15年ぐらいしてアメリカのDe Stijl RecordsのClintという人物から突然メールをもらった。彼はG-Modernの創刊号を入手して僕の書いたVirgin Insanityの記事を読んだという(日本語が読めるとは思えなかったのだが。記名も日本語だったし)。記事にはジャケットの小さい写真が出ていただけなのでなんとかレコード盤のレーベルの写真を送ってもらえないかという。訝しく思いながらもレーベルのスキャンを送ってあげたら10日もしないうちに返信が来て、バンドのメンバーが見つかりDe StijlでLP再発することになったのでライナーを頼みたい、という。レーベルのHPを見てみたらリリース・インフォが既に出ていてライナーがYou Ishiharaになってるじゃないの(笑)慌ててその件は丁重にお断りしてまあ再発できてよかったね出来上がったらサンプル1枚送ってね、と返信したら数日して今度はVigin InsanityのメンバーのBob Longから直接メールが来た。BobによればDe StijlのClintは僕の送ったレーベル写真にプリントされていた当時の住所から本人を探し出しコンタクトしてきたのだという(それは古い自主制作盤のデッドストックをトラックダウンする場合の常套手段ではある)。Bobは丁寧な謝礼、Thank you so much for all you have done to keep a dream aliveというメッセージとともに、未発表だった録音物などをCDRに焼いて送ってくれた。そしてトントン拍子に日本盤CDも発売される運びとなったのはみなさんご存知の通りだ。東京のマニアックなレコード屋が少数出版したミニコミの片隅に載ったレビューを15年後に読んだ米国人が動いてこういうことになったというのも感慨深いものがあったが、改めて紙モノの重要性を再認識させられる出来事ではあった。

  余談ではあるが僕はその後、G-Modernの同じ号にレビューを書いたRising Stormのメンバーとも偶然知り合っている。僕は好きな作品を作った本人と知り合いたいなどと思ったことは一度もないのに、縁とはとはまことに奇なものである。

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明大前

さようならモダ〜ン・ミュージック
さようなら明大前
生悦住さん、楽しかったよ、ありがとう。

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発売中の実験音楽、或いは思考的音楽の一部

 年も押し詰まってから石坂敬一氏の訃報が飛び込んできた。石坂氏といえば僕らの世代にとっては東芝音楽工業の洋楽ディレクターでありピンク・フロイドの「原子心母」を始めとする一連の作品やT.レックスの「電気の武者」のような秀逸な邦題ネーミングでつとに知られていた方だ。ファースト・アルバムがリアルタイムで発売された後、しばらく日本発売が見送られていたピンク・フロイドの「神秘」を2度の編成会議を経て国内発売にこぎつけた(イニシャルは600枚だったという)のも、同じくフロイドの「原子心母」を「プログレッシヴ・ロック」という新ジャンルをメディアに広めてブレイクさせたのも(当時、六本木、青山、渋谷あたりでは原子心母の牛のジャケットを持っていることが一つのかっこよさの代名詞になりつつある状況だったとインタビューで語っていた)、73年に発売された「狂気」を並み居る日本のアイドル、ポップス、歌謡曲を蹴落として総合オリコンチャートの1位に送り込んだのも石坂氏の尽力によるものだった。
 並行して東芝は「実験的・思考的音楽」としてタンジェリン・ドリーム、アモン・デュールやカン、サード・イアー・バンド、ケヴィン・エアーズ、ホークウィンドなど売れそうもないアンダーグラウンドなアルバムも日本発売、それぞれに丁寧なブックレットを添付して解説はあえて通常の音楽ライターよりも当時美術手帖の編集長だった宮澤壮佳や映画評論家の金坂健二を起用するなど独特のプロモーションを展開していた。
 タンジェリン・ドリームはわざわざドイツOrhから原盤権を買ってリリースしたようでピエール・シェフェールやアンリ、クセナキスなどは72年に国内発売された「ケンタウロス座のアルファ星」のライナーノーツ(というか解説書)の論考で初めて知った。ちなみに添付された帯のタタキ文句は「このレコードの価値は聴き手の耳と主観に依存する」であり、解説の主題は「宇宙と人間の磁場」だった。今なら「ナニコレ」と笑い飛ばされるだろうが当時はもちろん本気である。サード・イアー・バンドに至っては3枚ともほぼリアルタイムで発売した上に「マクベス」からは日本のみのシングル盤まで切っている。「錬金術」は初回発売の解説書では「これでもロック」であり、帯の文句は「現実か幻覚か、心の耳で確かめよ!」だったが数年後サードアルバム「マクベス」発売に伴う再発盤の帯では「第三の耳とは心の扉なりき….その神秘の音塊は恍惚境の舞踏、そして言葉の力はそこに消失する」となり、解説書には実際の錬金術の図版や「形而上的エロスの小宇宙」などのオカルティックな論説が紹介されていた。これらが当時の洋楽のメインの購買層である中・高校生だった僕らにどれだけ魅惑的に映ったか想像できるだろうか。それは70年代後期以降の宝島やもっとあとのクイック・ジャパンみたいな、マンガやアングラ音楽も含めたサブカルチャー、ポップ・カルチャーが面白い、なんでも面白がってみよう的な視点ではなく、どちらかというとポピュラーミュージックの一形態でしかなかったロックをむりやりハイカルチャーと結びつけて流布させようという、過激だけどかなり無理のあるプロモーション方法だったと今となってはおもう。
 もう一つ、石坂氏といえばロックマガジン創刊号の対談記事で阿木譲に、何故ラリーズを出さないのか、石坂さんなら出せるでしょう、出すべきだとしつこく詰め寄られて「そこは。。。もう少し待ってください。。」と困惑していたのを思い出す。その頃東芝はクリエイションやコスモス・ファクトリーの売り出しに必死でそれどころではなかったと想像するが。

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end of a year

 この人(たち)がこれをやる必然性があるのだろうか?と、いうのは音楽を聴いていてよく思うことで、ジャルに限らずそれは特に新しいものに顕著だけれど、古いものでもその前後を辿っていくとそういった疑念が湧くことがあるので時代の新旧を問うものではないのかもしれない。
 僕の言う必然性とは「こうならざるをえなかった」「これしか他に方法がなかった」に近いニュアンスなのだが、音楽も長くやっていると煮詰まってきて「何か別のこと」とか「あんまり他人がやってないこと」とかに活路を見出そうとしがちで、新しいモデル、スタイルを見つけるとすぐやってみたくなったりするでしょ?ミニマルやノイズ的前衛風味を付け加えてみたり民族音楽に頼ったりジャズ理論をかじってみたり。でもそういった自然体では無い感覚をモノにするには当然一朝一夕にはいかないわけでそれを未消化なままやってしまうと一般には面白がられても、イヤな言い方だけどそれなりに聴き分けられる感覚や経験値を持った人からはたちどころに峻別されてしまう。それならサンプリングの方が手法や思想を伴いわない分まだマシだ。  
 生煮えのスタイル剽窃ほどみっともないものはない。「資格」という古びたコトバがまだ有効だとしたら音楽に限らず幾多の表現方法には「それをやる資格」も必要な気がする。もちろんそれは自分で自分を資格認定出来るようにならなければ意味がないのだけれど。

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部活

  暮れも押し詰まったというのに迷えるオヤジが4人、いつもの新宿Tに忘年会よろしく雁首そろえて集合。定期的に開かれているとはいえ、4人が揃うのは夏の原村出張会議以来。その折に会議名が付与されたがどうにもこうにも発語しづらく、集まる人数によって「首脳会談」「本会議」「有識者会議」などと名付けられたもののこちらも使われたことはない模様。
  
  さて、いずれも音楽業界ではそれなりに知られており、知識と経験の豊富さはもちろんキツい一家言を忘れない御歴々なので毎度毎度その議論におけるハードルは上がるばかり。もちろんここでは今年世間が褒めちぎった作品だろうが近しい友達の作品だろうが果ては作者を眼前にしていようが躊躇なく俎上に挙げられ一刀両断にされた後、即座にゴミ箱にぶち込まれる。お互い褒めあって気持ち良く、などというヌルさは誰も持ち合わせていないからだが、今夜も年末の音楽誌では本年度の名作とされた盤が次々と批評の対象として晒されていく。
  夜が更けるにつれ話は観念論から80年代~現在に至るサブカルチャー論、日本の音楽ジャーナリズムの酷さ、ちょっと期待してたけどダメだった人の話、しまいには「ストーンズで好きなアルバムは」とか「同じ黒人なのにジミヘンとマルコム・ムーニーとスライの差異とは」などと、いにしえのロック喫茶もかくや、というべきオヤジ度100%の議論に場は更にヒートアップ。お客がはけるとD店長もたまらず参戦し泥仕合を繰り広げながら毎度のことながら気づくと朝4時半。結局「近い将来、一顧だにされていない戦前ブルースや初期のR&Rは、やんちゃ系ではなくアタマのキレる少数の若者らにカッコよくクールなものとして認識されはじめ、手法やスタイルの模倣ではなくその本質や感触だけを拠り所にした音楽を作ろうと模索する奴らが出てくるだろう」という結論に落ち着いた(笑)

  店じまいを待って睡魔と闘いながら向かうのはおなじみのカレー屋。会議終了後、ここでカツカレーを食べるのがノルマとされているのだ。まるで男子校の部活のシゴキのようでもあるが、朝5時ぐらいに素性の知れないオヤジがわらわらと入店し「カツカレー五つ」と注文しカウンターで一列に並んで一心に食べている図はまことに壮観である。酔いも覚め腹も朽ちたオヤジ5人は若干の胃もたれを感じつつ1月の新年会での再会を約束して三々五々タクシーに乗り込み帰路につくのだった。

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路傍の石

  60年代ガレージパンク・コンピレーションの嚆矢として語り継がれるNuggetsの日本盤が発売された。米60年代ガレージ、サイケを語る上で基本中の基本であるこのアルバムが国内初CD化とはいささか意外な気もするが同時に日本独自編集のVol.2、Vol.3が発売されるのは快挙と言っていいかもしれない。
  ご存知の通りNuggetsは、後にパティ・スミス・グループで彼女を長きにわたり支えて行くことになるミュージシャン兼音楽ジャーナリスト、レニー・ケイが編集し米エレクトラから72年という比較的早い時期にリリースされた。その後70年代末以降のPEBBLES、BOULDERS(鉱物的なイメージが多いのは玉石混合の意味合いでは?というのは岡田くんの説)など数え切れないほどの多様なガレージ・コンピのコンセプトに多大な影響を与えたのも周知の事実だろう。オリジナル発売当時はハードロック、プログレ、フォークロックなど日本でいうところの所謂ニューロック・アートロック全盛期でその意図はほとんど理解されず、セールス的にも芳しくなかったようだが76年にグレッグ・ショウの尽力によって米サイアーから再発された時には機も熟していたのか、折しも各地で勃興し始めていたパンクムーヴメントに少なからず影響を与えた。それは60年代のローカルなガレージパンクに単なるオールディーズとしてではない特別な意味合いがあるということを多くの人々が感じ取り始めた瞬間だった。
  
  今回は前述のようにオリジナル・エレクトラ盤のストレート・リイシューと共に日本編集の続編2タイトルがリリースされたのだが、大手レーベルからの正規盤ということで原盤の権利関係がクリアできず収録できなかったタイトルが山のようにあったということは旧来の知己で今回の編纂者である伊藤秀世氏のライナーにつまびらかだ。その事情もあってかVo.2とVol.3はそれぞれ米英混合というやや変則的な編集になっている。しかしながら79年にヨーロッパで100枚限定でリリース(77枚説もあり。もちろん非正規盤)、その後何回も再プレスされることになるアシッド・パンク系のキラー・コンピ、Acid Dreamsの冒頭に収録され我々の度肝を抜いた(当時はLitterの変名と噂されていた)White LightningのWilliam、The DeepやFreak Sceneのラスティ・エヴァンス関係でのちにCrampsやNomadsを始め多くのカヴァーヴァージョンを産んだThe Third BardoのI’m Five Years Ahead Of My Timeなど名曲の数々が正規収録されたのは、快挙と言って差し支えあるまい。もちろん、執念のCharlatans国内初登場も。
最近はめっきり少なくなった、ライナーノーツの本道とも言うべき手間と時間をかけたサーチがしっかり行き届いた入魂の解説も一読の価値あり。

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tick tock nightmare

 88年、アムステルダム。初めて降りた中央駅は薄暗く、数人の浮浪者が道端に寝転がっているのか死んでいるのか。タクシーを拾うまでのわずかな時間に黒人を含む数人のプッシャーが「要らない?安くするから」と声をかけてくる。grassではない、snowだ。そういう目的で来たわけではないので丁重にお断りする。スイスからの列車のコンパートメントで隣り合わせた老夫婦に「アムスって危険だと言われてるけどそんなでもないよね?」ときくと、首を横に振って真顔で一言「dangerous…」と言われた時の感覚が蘇ってくる。急いでタクシーを拾い、予約してあるホテルの名前を告げた。

 当時1UKポンドは300円以上、それに比べるとダッチ・ギルダーはものすごく安く感じた。老舗で底知れぬ在庫量を誇るレコードショップConcertoで面白そうなアルバムを何枚か見つけた後、無造作に床に置かれたバーゲン・ビンの箱にMark Glynne and Bart ZwierのHome ComfortのLPが何枚も打ち捨てられるように突っ込まれていた。この80年にアムステルダムで自主制作された(レーベル名がDivorced Recordsという..)アルバムは、大学時代、輸入盤店の新譜コーナーで見つけてから僕の中では特別な位置を占める作品だった。もちろん特段プレミアが付いているとかマニアが探しているとかそういうシロモノではなかったが日本円にして1枚数百円、信頼できる友達へのお土産としてそれらを買った。

 それから10年ぐらい経って。知り合いだったアメリカのレコードディーラーの家に遊びに行き、朝食をとった後チェックしていたシングルの箱の中で初めて見るMark Glynne and Bart Zwierの7インチを見つけた。裏ジャケットに81年と記載、ということはアルバムの翌年だ。「how much?」「$10」高いな、と思ったが今後見つかる可能性も無さそうだし買うことにした。
 東京に帰ってから早速針を落としてみるとアルバム冒頭の曲が、いかにも80年頃のポストパンクという風情にアレンジされたヴァージョンで収録されており面食らってしまった。A面のフェイドアウトがB面の頭にまで被ってしまっている。ジャケットデザインも投げやりだし、これはもはやこれまでだったのかと残念な気分になってしまった。

  年を経て最近久しぶりにこのシングルを聴いてみたらこれはこれで終わりにしたかったのだろうな、と思えるようになっていた。別に僕が寛容になったわけではないけれど。
アルバムでは、意味深なフロントカバー写真、バックカバーにはアントニオーニの「夜」からのカットが流用され、長大な歌詞をびっしりプリントしたインサート、半切れになった”impriting is a curious form of early learning”の文字、曲のタイトル、レーベル名まで、彼らと他者との関係性をテーマとした透徹した美意識が感じられたがこのシングルでは全てが真逆に作られている。では彼らにとって「終わり」とはなんだったのか。

 このHome Comfortのアルバムも決して名盤や推薦盤の類ではない。たまたま、80年、アムステルダムでひっそりと作られて、そして僕はそれを偶然同じ時代に受け取ってしまった、それだけのことだ。もちろん、すべての音盤はそのようにして存在している、と言ってしまえばそうなんだけど。

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once upon a time

 師走を迎えたにもかかわらず一向に忙しくないのもどうかと思うがやはり、というか今年は何もしなかった。身辺整理よろしく持ち物を処分したりは継続しているが新たに補充されるモノの方が多かったりで全く身軽にならない。
 そんなわけで新たな一冊、橘川幸夫氏の「ロッキング・オンの時代」を読んだ。72年のROの立ち上げからの約10年の記録。僕がROを読んでいたのは中学から高校の途中までの数年で、最初に買った時(中学生だった)はまだ10号にも満たず、定価¥180ぐらいでペラペラのミニコミ誌のようだった。内容的には今考えると60年代末から70年代初頭の雰囲気を残した、僕らより一世代上の、ロックと思想を結びつけるというかロックを思想として捉える論評が大半を占めていた。そういった傾向は当時(72〜3年)のロック・ジャーナリズム一般にもまだ残っていたけれどNMM(ニューミュージック・マガジン、今のミュージック・マガジン)が総体や現象としてロックを捉えていたのとは対照的にROは作品と個人(リスナー)の共同幻想(と言っていいかどうかは判らないが)に立脚していたように見えた。
 雑誌の中核だった渋谷、岩谷、松村、橘川各氏の文章はそれまで読んでいたNMM、MLや音楽専科とは違い、やや(いや、かなりか)観念的すぎるきらいもあったがそこが当時は魅力的だったし何より4人の文体が独特で、全く重なることなくそれぞれ孤立していたのが特徴的だった。他誌では酷評されていた初期のドイツロックなどにも全く別の角度から新たな評価を与えていたし大類信によるデザインの表紙も書店では異彩を放っていた。岩谷・松村らが製作したイターナウの自主カセット(千野秀一も参加していた)も買って、彼らがなぜだかNHKの若者向けテレビ番組(「高校中退」とかのテーマだったような)に登場し1曲演奏したのも観ている。(余談だが件の自主カセットについていたポスター(無地のグラデーション)が同時期に中野レコードが作ったKaruna KhyalのLPに付属していたポスターと同じだった記憶がある。どちらも手元にはないので確認できないが、もしそうだとしたら何か関係があったのだろうか)
 だが高校に入ったぐらいでパンクが勃興し、創刊号から読んでいたロックマガジン(初期数冊はROの影響が見え隠れしていた)が76年にニューヨークとロンドンでまだアンダーグラウンドだった初期パンクムーブメントを取材して誌面も一新した頃、惰性で買うようになっていたROで「パンクって要するに理由なき反抗でしょ」みたいな記事を読み、程なくして購読をやめた。大量にあったバックナンバーは大学の頃にまとめて処分してしまったのだが実家に初期の号が数冊残っていた。3号の表紙は真崎・守+宮西計三とあるので後に有名になる宮西氏がアシスタントをしていた時期のものだろう。ご存知の通り宮西氏は80年前後に三流劇画ブームで浮上し、宮西計三バンドを結成、WH結成前の栗原と松谷がギターとドラムスで参加していた。ちなみにその当時のバンド・マネージャーはエロ劇画雑誌編集長で初期フールズメイトでドイツロックやオカルティズムの記事を集中的に執筆しアシュラ山本の異名をとったやまもっちゃんこと山本雅幸氏。やまもっちゃんを媒介として栗原はその後、北村昌士のYBO2結成に関わることになる、というのは内輪の話。

 閑話休題。というわけで近年までROがまだ存在する、まして邦楽ロック専門誌にも枝分かれしてそちらの方が業界で影響力がある、などということもほとんど知らなかった。興味がなくなる、というのはそういうことで本屋の一番目立つところに置いてあってもまったく目に入らなかったのだろう。いずれにしろこの「ロッキング・オンの時代」に書かれている40数年前(ロックとは洋楽だった時代だ)とはロックの意味性もそれを取り巻く世界もまったく変容してしまった。
しかしSNSやネットでタダで入手出来る情報(それも不確かな)よりも、こういう当事者の証言がまとまって一冊になったものの方がはるかに面白いし対価を払う価値があるよね。

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With You

 例えば「トランスフォーマー」はミック・ロンソンで「ベルリン」はボブ・エズリンだった、のだけれど、かといってそれらはやはりルー・リードのアルバム以外何者でもなかった。当時最も才気走っていたミック・ロンソン(アレンジは殆ど彼だ。ボウイではなく)や、なんでもドラマ仕立てにしてしまうエズリンの強力な後ろ盾があったにせよ、だ。しかし「サリー・キャント・ダンス」でいよいよこれはダメだとおもったのかそれ以降はあからさまなプロダクションによる作り込みは影を潜めて行く。小杉武久氏のリスニング解説も香しい(日本盤LP)「メタル・マシン・ミュージック」でジョン・ケールとトニー・コンラッドへの借りを返したあとは「コニー・アイランド・ベイビー」で落差激しくうなだれた独白をレイチェルとともに演じてみせることとなる。と、ここまでが第一幕だった。
 さあここからが本題だ。「ロックンロール・ハート」を経て次に出された「ストリート・ハッスル」と「ベルズ」。この2枚がロックのアウトサイダー烈伝に忠実に生かされてきたルー・リードの円熟、または成熟期のアルバムといってさしつかえなかろう。そもそもロックに円熟だの成熟だのというコトバは似つかわしくない、という一般論を承知の上で、だ。
 当時のロックは常に最新先端を更新していくべきという激務を負わされていたとすれば、彼の音楽はVUの初期とメタル・マシンを除けば決して時代から突出していた訳ではなかった。むしろニューヨークの一風変わった詩人といった風情だった彼が、父親との確執のトラウマを女々しくも歌ってしまえるような弱々しさを武器に囲って来たのは頽廃だの背徳だの、クスリで早死にすることを期待するファンでしかなかったのは彼自身が一番よく判っていたはず。それは映画「Get Crazy」でのディランと重ね合わせて自己パロディー化した場面を思い出すまでもなく。
 で、この2枚に横溢するむせ返るようなムード。コレはなんなのか?多彩なゲストも、結局本人も使い方がよく判ってなかったバイノーラル録音も、最早どうでもよくなる圧倒的な存在感と、そのワリにどこにも着地できていない焦燥感。喋りまくり騒ぎまわった挙げ句、アワを吹いて倒れる子供みたいに。
 でも実は僕のルー・リードはここで終わっている。多分ルー・リードはなにも変わってなかっただろう。変わってしまったのはこちらのほうだったのだ、よくある話だけれど。思い入れとともに語る、というのはいささか気が引けるし本意ではない。特に彼のようなミュージシャンであればなおさら。しかし、そういった一方的な思いを道連れに死んでいった間章のようなひとも居たわけだし。もちろんそれとて彼が言っていたように単なる中断、無意味な死にすぎないのだろう。なんといってもこちらはまだ生きているのだ。その、まさに当の本人が死んでしまった今もなお。
 80年代前半だったか、小杉さんと故・高木(元輝)さんのライブのあと打ち上げで同席した小杉さんに「ロックなんかも聴くんですか?」と尋ねた事があった。「ルー・リードね、70年代に来日したとき観に行きましたよ。なんというか、空から音がキラキラ降って来るみたいでよかったですよ….」と僕みたいなコドモに向かい合ってくれながら小杉さんは運ばれて来たカエルの足の唐揚げにかぶりついた。すると持ち手用に付いていたアルミホイルが外れてパーの字に開いたキレイな水かき付きの足先が現れた。小杉さんはそれを見て小さく「うわあ….」と言った。

(2014年文藝別冊KAWADE夢ムック 追悼ルー・リード)

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