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MM四方山話

「あのさー、例のウチで出すサンプラーCD、音源集まったんだけどタイトルなんにしようか」
「んー、どいうのがいいの?」
「やっぱ東京のバンド集めてるから”東京”って入ってるのがいいかな」
「そうね~何かあるかな」と僕はエサ箱のレコードをめくりながら
「サイケのコンピでTEXAS FLASHBACKていうのがあるから、TOKYO FLASHBACKとかは?」
「あー、いいねえ!じゃあそれで」
「いや、でもこれって昔のレア音源を回顧するって意味もあるからちょっと違うかな~」
「いや、意味なんてどーでもいいんだよ(笑)」

ということでタイトルは決まり、ジャケットのデザインなどは確か松谷の発案だったはず。

しばらくして

「ここにさー、TOKYO FLASHBACKって書いてよ」とペンと紙を渡された。
「こんな感じで?」
「あー、そうそう。いいんじゃない?」
「いや、もうちょっとちゃんと書いた方が良くない?」
「いやいや、いいいい、ジャケなんてどーでもいいんだよ(笑)」

僕の擲り書きしたヘタな文字はそのままジャケットにプリントされ、その後ずっと使い回されることになる。

 その表ジャケにあるように当時のモダーンはカウンター内にもカウンター前にも灰皿が置いてあり、今では到底考えられないことだが、店員は喫煙しながら接客していた(お客も吸う人が多かったが生悦住さんは非喫煙者)。灰野さんは「オレがタバコ嫌いなの知ってて吸ってるな~、くそ~」と手にしたシングル盤でパタパタと紫煙を扇いではしゃいだりしていた。
年末、散らかったレジ周辺を整理していたら焼き鳥の串が大量に出土したこともあった。お客が差し入れで持ってきたビールと焼き鳥の残骸だった。
ある日、見かねたお客の一人が生悦住さんに「このあいだ店員の人がビール飲みながら店番してましたよ」と言いつけたらしいのだが「あ~、松谷くんでしょ、しょうがないね~はははは」で終わってしまったという。とにかくユルい店だった。

 それ以前、80年代前半のモダーンはどこかで言われてるようにシビアでホンモノ(?)の音楽のみに特化した店ではなかった。僕はその頃は単なるお店の常連の一人だったがパンク・ニューウェイブ系の輸入盤新譜も大量にあり、当時飛ぶ鳥をおとす勢いだったデザイナーズ・ブランド、Y’sやギャルソンのファッションショーの音楽担当の人がショーで使用する「まだ誰も知らないような最先端のレコード」を定期的に探しに来るようなお店だった。他ではほとんど扱ってなかったジャーマンニューウェイブの新譜もマイナーレーベルものまで揃えており、それを探しに来るミュージシャンやライターも大勢いた。DAFはもちろん、パレ・シャンブルグやリエゾン・ダンジェルーズなどはその頃のベストセラーだった。UK、ヨーロッパのネオアコやマイナーなエレポップ系ですら揃えていた。
 生悦住さんはそういったパンク以降、ポストパンクなどの新しい音楽にも寛大でラモーンズの初来日はまだ小学生だった娘さんを連れて行ったけど最高だった、という話は何度も聞かされたしジョブライアスは聴き込むとセカンドの方がいい、とかワイヤーが好き、とか昨今流布されている「アングラの極北」的なイメージとは随分かけ離れた部分も少なからずあったと思う。その頃初めてブート再発されたビッグ・スターのファースト、セカンドは、都内では一番枚数売ったはず。アイヴァースの追悼盤NIRVANA PETERも85年のリリース時に大量に発注してあっという間に売り切ったそうだ。
 ドイツのWORKSHOP(CANみたいなバンド)、デヴィッド・ピールの自主レーベル、ORANGE RECORDSやJANDEKは本人に手紙を書いて直接仕入れていた。当時まだ誰も知らなかったJANDEKのコーナーがあったのはモダーンだけだった。それらはすぐに常連の間で話題になり、売り切れては再注文を繰り返していた。(余談になるが90年代も終わり頃、モダーンが取引していたラッツパックというカット盤・廉価盤専門の輸入卸売業者のリストにMUSIC MACHINEのTURN ONが載っていて、生悦住さんは「アメリカ盤って書いてある。まあ再発盤だろうけど安いし何枚か仕入れてみるか」と注文し、届いたらなんとオリジナル、それも全部シールドのmono盤だったので慌ててかなりの数量を再注文、「もうないだろうな〜」と言っていたらちゃんと注文した枚数が届いたことがあった。元々どこかの倉庫にデッドストックで眠っていたものらしくシュリンクどうしが張り付いて全体がブロックのように固まっており、1枚1枚ペリペリ剥がさなければならなかった。すでに結構なプレミアが付いている盤だったが店頭では「いっぱい入ったから」と普通に¥2800ぐらいで出していたと記憶する)

 夜8時に営業が終わると生悦住さんは店内でダラダラしている僕ら常連と店員を引き連れてよくご飯を食べに行った。その頃生悦住さんも僕も飲めなかったので普通にご飯を食べ、松谷やその他飲める人たちは酒とおつまみ、みたいな感じで飽きもせず音楽とかレコードとかプロレスとかの話ばかりしていた。ほとんど生悦住さんのおごりだったと思う。業界自体の景気もまだ良かったのだろう。

 生悦住さんの、とりあえず聴いてみないとわからないから、という姿勢は徹底していて、例えばミュージックマガジンで褒められてるもの、話題になっている新譜はジャズ系だろうと民族音楽であろうとヒップホップだろうと必ず自分で1枚買って聴いていたがそのほとんどは翌日には「これ、ひどかったね~」の一言とともに店頭に中古¥500で並べられることになる。「え~、こんなの聴かなくてもわかるじゃない」と言うと「いや~もしかして本当に良かったらマズいじゃない。一応、買って聴いとかないとね」と言うのだった。

 かつてモダーンの常連だったという人たちにとっても時代によってお店のイメージは全く違うだろう。ある人にとってはニューウェイブ、インダストリアルなど当時最先端のものを扱っていたお店、ある人にはインタリアンロックを中心としたプログレの高額廃盤を取り揃えていたお店(これは今となっては知る人も少ないが、のちにエジソンに行ったウエノくんがバイトしていた頃で、本当に壁一面がプログレ超高額廃盤だらけ、しかもほとんどに”売約済”の紙が貼られていた時代があった)、あるいはニューヨークパンクとその周辺に強いお店(小山くんの時代)、またはサイケやガレージに異常に詳しいお店、ザッパのレア盤を探しに行くお店(お客で有名なザッパコレクターが何人かいた)、マイナーな日本のロック・フォークや自主盤、フリージャズに強いお店、という具合に。どの時代に通っていたか、何を求めてモダーンに行っていたかによって印象は全く異なるはずだが、実はその時々の店員の趣味趣向に負う部分が大きかったのだと思う。

 音楽業界全体が急速に疲弊し始め、明大前の区画整理で店舗を一旦閉めることを余儀なくされた前後から少しづつお店を取り巻く雰囲気も違ってきたような印象があるが、個人的にはその頃、またビルがマンションになって再開店してからもお店に遊びに行くことは稀になっていたので事情はよくわからない。

 
 毎年4月になると明大の新入生が表の「輸入レコード」という看板に惹かれてゾロゾロひやかしに入ってきて「マイケルジャクソンないですか?」とか「クラプトンはどこにあるの?」とか訊かれるのに嫌気がさし、メタルマシンミュージックを大音量でかけて追い払ってしまうような特異なお店であり店主であったので毀誉褒貶相半ばするのは当然として、モダーンミュージックというショップとPSFというレーベルではそれぞれが持つイメージ/実態においてもかなりの開きがあった。僕がこうして書いたり語ったりできるのはモダーンというお店にまつわることのみであってPSFについてはごく初期を除いてほとんど語るべきコトバを持ち合わせてないことを白状しておく。

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幕間

 客入れはチェット・ベイカー・シングス、演奏終了時はタイニー・ティムのWhat The World Needs Now Is Love、これは80年代の最初のライブの時から決めてあってほとんど変わらなかった。
ただでさえ少なかった客の中でそれに気づいた人がどれだけ居たかはわからない。

 それは僕(ら)の立ち位置、そしてどこからやって来たのかをしれっと提示するある意味わかりやすい暗号としてあったので人任せにして無関係な曲を垂れ流すわけにはいかなかったし、その間に挟まれた僕らの演奏はそれを証明せんとする手立てのひとつだったとは考えられるが、結局それ以上でもそれ以下でもなかった。
と、今となっては思う。

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from room 109

at The Islander on Pacific Coast Highway

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nothing in somethingparticular

82年にリリースされたAssociatesのSulk。今の世の中では多くのリスナーが即座に拒否反応を起こしかねない硬直したベースと変調されたドラムスに何重にもレイヤーされた過剰な音像。
ブラックミュージックの要素ゼロ、隙間ゼロの極めて歪で人工的な官能。そしてあの声。

ジャケットの、繁茂する植物を照射しながらぼうっと発光するマグネシウムを思わせるグリーンとブルーのトーンは幾分のメタリックさを増しつつインナースリーヴ、レーベルにまで徹底されている。これは超俗的な美意識というより、正真正銘のカンナビス。
当時、このジャケットを一目見てジャック・スミスを想起したのは覆いかぶさる植物がシダに見えたからか?冷蔵庫は見当たらないとしても。

とまれ、アルバムはTOP10入りしたにも拘らず発売後のライブ、全米ツアーを拒否したビリー・マッケンジーはアラン・ランキンに匙を投げられ二人は袂を別つ。
その後の彼を待っていた悲劇、それはたしかにこの世界ではよくある話、なのかもしれないが、ある友人が言っていた「何かが全開になってしまっている人の凄み」というコトバはこのアルバムにこそ当て嵌まるんじゃないかな。音の好みは別として。

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残務処理

サイケの自主盤とかレア盤などは数年前に急激に興味を失って、知り合いに頼んでほとんど手放してしまい全く後悔していないけれど、このあたりはまだ残っている、というのがいやはやなんとも。

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8384

 80年代半ば、耳ざとい友人や輸入盤店で話題になり始めたレコードがあった。イギリスの4ADからリリースされたThis Mortal Coilという女性ヴォーカルを含むユニットで、ティム・バックレイやビッグ・スターのカヴァーをやっているという。ジャケットのアートワークの耽美さが苦手だったがとりあえずシスコだったかオパス・ワンだったかで購入した。
 一聴して「コレじゃないだろ」という嫌悪感にも似た感情を覚えた。ティム・バックレイは「Song To The Siren」、ビッグ・スターは確か「Holocaust」と「Kangaroo」だったが、そのカヴァーの出来不出来はともかく、その選曲に拒否反応を起こしたのだった。
 原曲は今も多くのリスナーに愛され続けている名曲なのは認める。しかしそこだけがピックアップされることによって彼らのイメージが決してしまうような気がしてならなかったのだ。実際、このアルバムは当時日本でもすごく売れたしこれでチルトンやバックレイ、ロイ・ハーパーを知った人も多かったと思う。
 「傷つきやすい繊細さ」や「無垢なナイーブさ」をこよなく愛するミュージシャンやリスナーは今も数多いだろう。そういう捉え方、そしてどうも近年感じる「サードが好き」的な風潮の端緒と感じたのがこのアルバムだった。例えばビッグ・スターはサード、ヴェルヴェッツもサード、ラヴはフォーエバー・チェンジスなどなど。
そこには、その前にVUならメタリックなゴミのように歪みまくったWhite Light White Heat, バックレイなら寒気がするようなLorca、チルトンなら(後になるけれど)個人が解体していく過程を自らドキュメントしたかのようなLike Flies On Sherbertがある、という当たり前の文脈がすっぽり抜けているような気がするのだ。もちろんそれを承知している上で、という人も多く居るというのも判ってはいるのだが。
  キレイなものだけ見ていたいとか自分のナイーブさだけを標榜するような人は、だいたい会って話してみるとやたらとイケ図々しいヤツだったり計算づくの無邪気なそぶりだったり根拠のない被害者意識の塊だったりして疲れることこの上ない。まあ僕のようなひどく鈍感で繊細さのカケラもないと常々自負している人間にはわからないだけなのかもしれない。きっとそうなのだろう。

  83年から84年頃、This Mortal Coilや同じ時期に出た他のレコード(インダストリアル系も含む)を聴いて、数年続いた嵐のようなパンク〜ニューウェイブの季節が終わり、再びプログレ的な様式美の世界(インダストリアル系だとジャーマンのタンジェリンのAtemとかZeitの頃みたいな形の抽象)に回帰していくのだろうなとぼんやり感じたあたりから輸入盤店に行って新譜を買うということをしなくなってしまった。そして同時に自分が体験できなかった60年代の未知の音楽を中古盤店で探し求めるようになっていった、というわけなんです。もう20代も半ばにさしかかろうとしていて、こりゃ自分でちゃんとやったほうが早いのでは、などとも思い始めていた頃でした。

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chance meeting

 インターネット、SNS全盛の現代においても未だにどこをどう探しても出てこない、埋もれてしまった情報や記述、証言の類は無尽蔵に存在するということはご存知の通りで、サイバースペースの中に存在するのはそのうちほんの一握りの事象でしかない。それは何も過去のものに限ったことではなくたとえば先週発売された雑誌を手に取らなければ永遠に知ることのない情報や事実もいくらでもあるだろう。活字媒体、いわゆる紙モノの重要性は以前にも増して大きくなっているように思える。

 モダーンミュージックが閉店直前ぐらいまで不定期に発行していたハウスマガジンのようなG-Modernという雑誌があった。創刊したばかりの91年ぐらいに頼まれてレコード・レビューやちょっとした記事を書いていたことがあるのだが、「埋もれた名盤」というコーナーにVirgin Insanityのアルバムを紹介したことがあった。以前のブログにも書いたことがあるが、これは71年に米テキサスで200枚プレスされた自主制作盤で、その頃モダーンではそのコーナーに取り上げられていて聴いてみたいけれど入手が難しい、というものについて、希望者にはカセットにコピーして配布するという気前のいいサービスをしており(生カセット代のみを負担してもらう仕組み)、このアルバムにもそれなりに反響はあったようだ。
  それから15年ぐらいしてアメリカのDe Stijl RecordsのClintという人物から突然メールをもらった。彼はG-Modernの創刊号を入手して僕の書いたVirgin Insanityの記事を読んだという(日本語が読めるとは思えなかったのだが。記名も日本語だったし)。記事にはジャケットの小さい写真が出ていただけなのでなんとかレコード盤のレーベルの写真を送ってもらえないかという。訝しく思いながらもレーベルのスキャンを送ってあげたら10日もしないうちに返信が来て、バンドのメンバーが見つかりDe StijlでLP再発することになったのでライナーを頼みたい、という。レーベルのHPを見てみたらリリース・インフォが既に出ていてライナーがYou Ishiharaになってるじゃないの(笑)慌ててその件は丁重にお断りしてまあ再発できてよかったね出来上がったらサンプル1枚送ってね、と返信したら数日して今度はVigin InsanityのメンバーのBob Longから直接メールが来た。BobによればDe StijlのClintは僕の送ったレーベル写真にプリントされていた当時の住所から本人を探し出しコンタクトしてきたのだという(それは古い自主制作盤のデッドストックをトラックダウンする場合の常套手段ではある)。Bobは丁寧な謝礼、Thank you so much for all you have done to keep a dream aliveというメッセージとともに、未発表だった録音物などをCDRに焼いて送ってくれた。そしてトントン拍子に日本盤CDも発売される運びとなったのはみなさんご存知の通りだ。東京のマニアックなレコード屋が少数出版したミニコミの片隅に載ったレビューを15年後に読んだ米国人が動いてこういうことになったというのも感慨深いものがあったが、改めて紙モノの重要性を再認識させられる出来事ではあった。

  余談ではあるが僕はその後、G-Modernの同じ号にレビューを書いたRising Stormのメンバーとも偶然知り合っている。僕は好きな作品を作った本人と知り合いたいなどと思ったことは一度もないのに、縁とはとはまことに奇なものである。

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明大前

さようならモダ〜ン・ミュージック
さようなら明大前
生悦住さん、楽しかったよ、ありがとう。

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発売中の実験音楽、或いは思考的音楽の一部

 年も押し詰まってから石坂敬一氏の訃報が飛び込んできた。石坂氏といえば僕らの世代にとっては東芝音楽工業の洋楽ディレクターでありピンク・フロイドの「原子心母」を始めとする一連の作品やT.レックスの「電気の武者」のような秀逸な邦題ネーミングでつとに知られていた方だ。ファースト・アルバムがリアルタイムで発売された後、しばらく日本発売が見送られていたピンク・フロイドの「神秘」を2度の編成会議を経て国内発売にこぎつけた(イニシャルは600枚だったという)のも、同じくフロイドの「原子心母」を「プログレッシヴ・ロック」という新ジャンルをメディアに広めてブレイクさせたのも(当時、六本木、青山、渋谷あたりでは原子心母の牛のジャケットを持っていることが一つのかっこよさの代名詞になりつつある状況だったとインタビューで語っていた)、73年に発売された「狂気」を並み居る日本のアイドル、ポップス、歌謡曲を蹴落として総合オリコンチャートの1位に送り込んだのも石坂氏の尽力によるものだった。
 並行して東芝は「実験的・思考的音楽」としてタンジェリン・ドリーム、アモン・デュールやカン、サード・イアー・バンド、ケヴィン・エアーズ、ホークウィンドなど売れそうもないアンダーグラウンドなアルバムも日本発売、それぞれに丁寧なブックレットを添付して解説はあえて通常の音楽ライターよりも当時美術手帖の編集長だった宮澤壮佳や映画評論家の金坂健二を起用するなど独特のプロモーションを展開していた。
 タンジェリン・ドリームはわざわざドイツOrhから原盤権を買ってリリースしたようでピエール・シェフェールやアンリ、クセナキスなどは72年に国内発売された「ケンタウロス座のアルファ星」のライナーノーツ(というか解説書)の論考で初めて知った。ちなみに添付された帯のタタキ文句は「このレコードの価値は聴き手の耳と主観に依存する」であり、解説の主題は「宇宙と人間の磁場」だった。今なら「ナニコレ」と笑い飛ばされるだろうが当時はもちろん本気である。サード・イアー・バンドに至っては3枚ともほぼリアルタイムで発売した上に「マクベス」からは日本のみのシングル盤まで切っている。「錬金術」は初回発売の解説書では「これでもロック」であり、帯の文句は「現実か幻覚か、心の耳で確かめよ!」だったが数年後サードアルバム「マクベス」発売に伴う再発盤の帯では「第三の耳とは心の扉なりき….その神秘の音塊は恍惚境の舞踏、そして言葉の力はそこに消失する」となり、解説書には実際の錬金術の図版や「形而上的エロスの小宇宙」などのオカルティックな論説が紹介されていた。これらが当時の洋楽のメインの購買層である中・高校生だった僕らにどれだけ魅惑的に映ったか想像できるだろうか。それは70年代後期以降の宝島やもっとあとのクイック・ジャパンみたいな、マンガやアングラ音楽も含めたサブカルチャー、ポップ・カルチャーが面白い、なんでも面白がってみよう的な視点ではなく、どちらかというとポピュラーミュージックの一形態でしかなかったロックをむりやりハイカルチャーと結びつけて流布させようという、過激だけどかなり無理のあるプロモーション方法だったと今となってはおもう。
 もう一つ、石坂氏といえばロックマガジン創刊号の対談記事で阿木譲に、何故ラリーズを出さないのか、石坂さんなら出せるでしょう、出すべきだとしつこく詰め寄られて「そこは。。。もう少し待ってください。。」と困惑していたのを思い出す。その頃東芝はクリエイションやコスモス・ファクトリーの売り出しに必死でそれどころではなかったと想像するが。

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end of a year

 この人(たち)がこれをやる必然性があるのだろうか?と、いうのは音楽を聴いていてよく思うことで、ジャルに限らずそれは特に新しいものに顕著だけれど、古いものでもその前後を辿っていくとそういった疑念が湧くことがあるので時代の新旧を問うものではないのかもしれない。
 僕の言う必然性とは「こうならざるをえなかった」「これしか他に方法がなかった」に近いニュアンスなのだが、音楽も長くやっていると煮詰まってきて「何か別のこと」とか「あんまり他人がやってないこと」とかに活路を見出そうとしがちで、新しいモデル、スタイルを見つけるとすぐやってみたくなったりするでしょ?ミニマルやノイズ的前衛風味を付け加えてみたり民族音楽に頼ったりジャズ理論をかじってみたり。でもそういった自然体では無い感覚をモノにするには当然一朝一夕にはいかないわけでそれを未消化なままやってしまうと一般には面白がられても、イヤな言い方だけどそれなりに聴き分けられる感覚や経験値を持った人からはたちどころに峻別されてしまう。それならサンプリングの方が手法や思想を伴いわない分まだマシだ。  
 生煮えのスタイル剽窃ほどみっともないものはない。「資格」という古びたコトバがまだ有効だとしたら音楽に限らず幾多の表現方法には「それをやる資格」も必要な気がする。もちろんそれは自分で自分を資格認定出来るようにならなければ意味がないのだけれど。

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