月別アーカイブ: 2013年10月

DJ

夜の扉

11/1 (Fri) Start 23:00 / ¥1000

-DJ-
石原 洋
二見裕志
SANOXO BABIES (2MUCH CREW)
AWANO
LE PERRIE

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夜は明けそうかい?

some people wait for things that never come
some people dream of things they’ve never been done
they do it all through the night
all through the night

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living sickness

 70年代末から始まった60年代ガレージパンクへの再評価(もちろんその先達としてレニー・ケイのナゲッツがあるのだが)は今は一段落した感があるけど90年代あたりまではそれなりに熱い季節があった。
その頃、僕らの周り、という極めて狭い括りでもモダーンミュージックのハウスマガジンであるG・Modernにガレージパンクの記事を連載していた岡田くん(有間凡)の斬新な視点と影響力で既に入手困難だった初期ガレージコンピのLPを集めだす人が何人もいた。
 ある短い時代の、それも十代の少年少女たちの集合的無意識から湧き出てきた、一過性の現象としての60年代ガレージパンク、それに関する膨大な知識に裏打ちされた、ラフ・タフ・ワイルドだけではないガレージパンクの捉え方を提示し、海外の伝説的ロック・ジャーナリスト達の重要文献の邦訳、コルタサルやパヴェーゼを違和感無く並列させる岡田くんの文体(彼はたしか立教の仏文出身で、「学校で間章の論文を見つけたけどやっぱりバタイユだったよ~」と笑っていた)は出色だったとおもう。大学では初期の光束夜に居た横山宏が先輩に居て影響を受けたらしく、「ある日さ~学校で横山宏が突然アロハシャツ着てきてさ~、あっ、とおもって、それってティム・バックリーのセフロニアの裏ジャケでしょ?って言ったらやっぱそうでさあ~」と笑ってた事を思い出す。あの裏ジャケの、アロハに笑顔で両手を広げた写真の持つ絶妙なニュアンスはあの頃の僕らに共通した痛痒い感覚だった。中原(昌也)も岡田くんの文章をかっていてどこかの出版社からまとめて出せればいいねと話してたけど未だ実現していない。

 当時60年代ガレージにハマっていた人には特徴があって、10代でドイツ・ロックを聴きだし、その後数年単位で→ノイズ、アヴァンギャルド→60年代サイケ、アンダーグラウンド→60年代の無名なガレージパンク、と移行して行く、というのが何故か多かった。日本で初めてのドイツ・ロック系レコードのカタログとなったロック・マガジン77年の別冊本も執筆者は山崎春美、坂口卓也、牧野美恵子でおそらく全員ハタチ前か少し過ぎたぐらいだっただろうから符牒が合う。そのころ僕らは高校生だったが、多分、岡田くんも僕もそういう流れで聴いて来ていて、例えばSunn o)))のスティーヴンみたいなひとがメタルからドローン、やがてアヴァンギャルドにいく、というのは理にかなっているというか順序として普通だとおもうが、それを逆行するような聴き方はやはり日本のマニアックなリスナー特有な現象なのか。ずっと理由を考えているんだけど説得力のある回答はおもいつかない。もちろん、10代から脇目もふらずノイズ道、ドイツロック道を邁進したひとも多く居るので一概にパターン化している、とは言えないが。
インターネット登場以降ではそういう聴き方をするひとも居なくなったような気がするし、単にあの時代の(それもすごく狭いサークルの中での)価値観だったのかもしれない。
彼は僕が店を辞めたあと入れ替わりでモダーンに入ったがその後体調を崩して実家に帰って療養中ときく。

最後の方に店で会った時、こんな本が出たよ、と岡田くんが興奮気味に語っていた、ポピュラーミュージックとアヴァンギャルド・アートの関係性を多分「場」というキーワードを足がかりに、パリの1800年代末(jazz)からニューヨークの1900年代末(no wave)を、世紀をまたいで連結させ論評したとおもわれる「ビトウィーン・モンマルトル・アンド・ザ・マッドクラブ」という、タイトルだけでもワクワクする洋書を僕はまだ読めていない。

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Contact High

 以前書いたとおもうけど74年発行の音楽雑誌(今気づいたがこの時代、中学生だった自分にとって音楽雑誌とは洋楽専門誌との認識があった)、「プラス・ワン」の特集で日本のロックのアルバム(もちろん当時出たばかりの)をアメリカの音楽ライターに聴かせて評論させる、という記事があった。フラワー・トラヴェリンやミカ・バンドのファースト、はっぴいえんどやトゥーマッチまで好き勝手にレビューされていてけっこう面白かったが、中でもスピード・グルー&シンキについて書かれたものがとても興味深かったのでちょっと引用してみる。

「スピード・グルー&シンキという、ドラッグをそっくりそのまま名前にしたようなグループには、誰だって驚かざるをえないが、事実彼らにはびっくりした。このグループはストゥージスよりナマで、初期のヴェルヴェット・アンダーグラウンドより退廃的で、ゴッズより音楽性にとぼしい〜事実、彼らの歌はどれも、歌詞からみてもサウンドからみてもニヒリズムをとおりこしている」

 海外の音楽レビューにはこういった比較/比喩の類いが多く見受けられるがこの文章から受ける異様なカッコ良さは筆者がストゥージス、VU、ゴッズ(もちろんあのESPのGodzだ)というそれぞれのバンドの、その時点でたかだか10数年ぐらいしか経ってなかったロック史に於ける固有の文脈と立脚点を割と正確に把握していたからこそ、その3つのバンドを知ってる者にとって説得力があったのだろう。VUとストゥージスが並列されることはままあったが、そこにゴッズが加わることによってこのレビューは独自のインパクトをもつ。もちろん筆者はライブはおろか、おそらくバンドに関しての基本情報も持っておらず、純粋にレコードという作品を聴いただけでの感想だ。
 当然日本ではスピード・グルーに関して今も昔もこういうレビューは読んだ事も無く、74年といえばVUは6年遅れてようやくファースト(のみ)が日本盤で発売されたばかり、ストゥージスも淫力魔人がボウイ関係という事で74年に日本発売されたが音楽性というよりスキャンダラスなステージングの方が話題になった程度(日本で現在の高評価は77年のパンク以降に定着、それまではキワモノ扱いだった)、ゴッズなんて昨今の再評価からは考えられないかもしれないが、その頃はESPの輸入盤しかなく、ほとんど誰も知らないだろうし聴いた事もなかっただろうから仕方ないといえばそうなのだが。

 坂本がよく「音楽に詳しいひとに批評してもらいたいんだよね」と言うがそれは個人の思い入れや自己陶酔的な形容詞の羅列ではなく、作った本人さえ自覚していなかったような、まったく違った角度からの鋭い見方を知りたい、という事に他ならない。(余談だがゆら帝がNYに行った時、雑誌の紹介で音楽的類似点というか影響の部分にCANみたいなジャーマンロックとか60年代サイケデリックというお決まりの他に10CCが列挙されていて、おっ、と。坂本はそれほど熱心に10CCを聴いてはなかったようだが自分は初めてファーストを聴いた中学生のとき以来、初期作品は好きだし、ゆら帝中期の楽曲に10CC的コーラスワークをアレンジで使った事があった。そういう意味で音楽集団としてのゆら帝が一番近かった存在は、いにしえのサイケやクラウトの列強ではなくヨ・ラ・テンゴだと確信する。良くも悪くも過去の音楽史への敬意を内包した、的確で効果的な引用と組み合わせの妙が本質という共通点。実は僕はヨ・ラ・テンゴをほとんど聴いた事がないが、おそらく外れてはいないだろう)
 
 それには時系列に沿った膨大な音楽知識とそれを咀嚼解析し自分なりの文脈で構築し直すという時間のかかる作業が必要となる。ブログやツイッターで一般人がそれぞれの感想を書くのはまったく自由でおおいに結構だが少なくともライターや評論家と称する、報酬が生じるタイプの仕事として、あまりにもヒドい文章がまかりとおっている気がする。プロとおもわれるライターが書いた、僕の関係する某バンドのアルバムレビューを読んだ事があるが、(それを出す事でマニアックだなと思われる事を期待した)作家の名前、必然性の無い形容詞の上塗りや硬直した文体など、褒めているのだろうけどペダンチックなだけで、たとえ文学的批評であろうとするにしてもレベルが低すぎて嫌悪感しか残らなかった。
 ある意味、知に対する恥じらいがない、ともいえるだろう。単に知っていることと、知らざるをえなかった(ところまで来てしまった)ことは違うとおもうのだ。自分も若かった頃、似たような駄文を書いてしまってあとで恥じ入った事があるので余計そうおもうのかも。

 ちなみに坂本のTV主題歌シングルをもらったとき、別に批判したわけでもないんだけれどいくつか比較/比喩を羅列してメールしたら激怒されて、唯一それは、まあいいかも、と言われたのが「下町のスティーリー・ダン」だった。

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entertainment through pain

アタマがボーっとする。トシもトシなので朝まではさすがに。
珍しく二見くんを迎えて坂本&藤原組と新宿Tで。
「まさにTGじゃないですか」「entertainment through painって」「いつになったら終わるんだろうね」
二見くんはDJでパティ・スミスのPoppiesを回したことがあった
僕のバンドは最初White Poppiesだったが一回ライブをやったあと、ゴロが悪いというのでWhite Heavenになったのだった
パティは2枚組ブートLPに入っていた75年のPiss Factoryのライブが好きだった

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