ジャーマン・ロック(またはドイツ・ロック)がクラウトロックという呼称で世界的に定着して久しい。元々アメリカでは70年代からそう呼ばれていたがそこにはドイツ人のやってるロックだってよ、みたいな蔑称的な意味合いが強かった。
日本ではその昔からジャーマン・ロックは所謂プログレッシヴロックの中でもリスナーの間で評価は高く、70年代でプログレといえばブリティッシュ・ロックとジャーマン・ロックだった。タンジェリン・ドリーム、カンやアモン・デュール2は東芝からLPが発売されたこともあったしブレインの権利を持っていたテイチクからはグルグルやグローブシュニットなどが当時発売されていた。アモン・デュール2が「神の鞭」から「ライブ・イン・ロンドン」までの全アルバムがほぼリアルタイムで日本盤でリリースされていたのは今となっては驚異だが、それでもやはり数少なく高価な輸入盤でしか聴けないものがほとんどだった。
74−75年頃、マニアックにロックを聴いていた中学の同級生が2人居て、学校の帰りはだいたい3人で行き着けのレコード屋でタムロしていたのだが、日本盤LPのライナーノーツや、たまに音楽雑誌に載るドイツロックの記事に取り上げられていた国内未発売のレコードが聴きたくて仕様がない、なんとかならないか、とみんなで店長に陳情したことがあった。その若い長髪の店長は「気持ちは判るけど難しいよ」と言って首を横に振ってたのだけれど、ある日、いつものように学校帰りに店に行ってみると「ドイツ・ロック・コーナー」が出来ていたのだ。どういうルートを使って仕入れたのか知らないが、そこにはアシュラ・テンペルや、ハルモニアの洗剤、クラスターの星ジャケをはじめ、見た事の無かったジャーマン・ロックのレコードが大量にあった(テイチクからクラスターやハルモニア、ノイが国内発売されるのはもう少し後になってから)。勿論全て新品である。さすがに無理をして仕入れたのか値段は高く、たしか1枚¥3500〜¥4000ぐらいはしたので友達と手分けして買う事になり、僕はまずアシュラ・テンペルのセカンド、Schwingungenを買った。新品にもかかわらずプレスが悪く、静音部が多い為プチパチが目立ったが聴けるだけでありがたかった。聴いていて感じたのは初期、特に「神秘」の頃のピンク・フロイドの影響が思った以上に大きいということだった。クリーム地にオレンジで描かれたジャケットのドローイング自体がフロイドの「モア」の裏ジャケがモチーフになっていたし、「神秘」のタイトルトラックそっくりの曲もあった。そういえばタンジェリンのファーストにも同じようなパートがあったと記憶する。
ノイを最初に聴いたときは爆笑した。「NEU2」だったのだが針を落としてしばらく単一ビートが続くので一緒に聴いていた弟と「これ、このままで終わったりして」と言っていたら、多少音量が上がったり下がったりしたが本当に展開も歌もなにもなく終わってしまった。こんなのは聴いた事がなかった。高校の頃、地元のテレビ局の夕方のニュース番組のオープニングに「NEU75」の一曲目が使われていたときも仰天したものだった。誰かマニアックなディレクターが居たのだろう。
あれから幾星霜、ジャーマン・ロックは90年代アメリカで再評価されて以降、現代の音楽に影響を与え続けるオリジンとして語り継がれているが、メンタルと肉体の過酷な実験の場であった当時のジャーマン・ロックが音響の面白さのみを軸にもてはやされているのをみていると、名称が「クラウトロック」になった時点でなにか重要なものが抜け落ちてしまったような気がしてしまうのだ。それは個人の聴き方の微妙な嗜好の取捨選択が実は全体を決定してしまうという、その個々の色のようなものが情報の過剰さによって希薄になってしまった事によるのかもしれない。立場上、そういった動向に目配せしておかなければいけない人もいるだろうが、僕は幸か不幸かそういう場所には居ない。現象としては面白いかもしれないが共感はできない、ということだ。
当時のジャーマン・ロックの本拠地、中野レコードと青山のパイド・パイパーハウスの間には実際の距離以上の限りなく遠い距離があったはずだ。それはある年代のひとなら判ってもらえる感覚だとおもうが、それでトシはとりたくないものだ、などとは毛頭思わないし、厳格で非情な線引きは常に必要だと考えている。もちろんそれはどちらの立場に在ったとしても、だ。
とりあえず、友達だった伊藤秀世ふうに言わせてもらうなら、「ジェシ・ウィンチェスターとクセナキスを同じ次元で聴けてしまう感性など、あいにくと持ち合わせていないのだ」
月別アーカイブ: 2013年12月
cool as ice
シスター・レイは、黒人音楽であるブルースやR&Bから派生し、そこからどうしても脱却することができなかったロックミュージックが初めて産みだした、まったくグルーヴもスウィングもしないゴミ屑のようなヘヴィメタルミュージックだったというようなことを誰かが言っていた(記憶違いかもしれない)。
そしてスーサイド、ネオン・ボーイズ、初期のテレヴィジョンを経てNo New Yorkにたどり着いた時点でその流れは終わってしまった。
勿論同時期にはリス・チャサムもグレン・ブランカも居たけれど彼らは出自がまったく違って単なるガキやチンピラではなかったし理論にも技術にも長けた大人だった。ブランカのTheoretical GirlsがNo New Yorkからオミットされたのもイーノの嗅覚がそうさせたのかもしれない。
No New Yorkの乱痴気騒ぎが一瞬で終わったあとルー・リードはバイノーラル録音も空しくダンゴのように煮詰められたストリート・ハッスルとベルズをリリースする。この2枚は60年代末から連綿と続いてきた所謂ニューヨーク・ロックの極点であり終着点だった。それ以降は憧憬とともに短かった季節を振り返るか、いち早く死者の墓を暴く事で新世代の敬畏を集めるのに躍起になるようなひとたちが主流になっていってしまった。