それは延命治療のようなものなのだ。ある者たちは「高度な政治的判断」に基づいて考え抜いた次の一手にちょっとした言い訳を付け加えることを忘れず延命を図り、ある者たちは単純再生産の場を日々の糧として疲弊消耗しながら多少の色の濃淡でせめてもの延命を望む。またある者たちはもう2年も前のモードを纏いながら等身大性を主張し、その無残さには気づかない。同じ時代を生きて来た者たちだけを招いて当時の服装のままでささやかなホームパーティーを開く者たちもいた。それらはもちろん責められることではない。「もう飽きた」という無自覚で強烈な一言に対抗する術など誰も持ち合わせてはいないだろうし、起死回生の劇薬も欲してはいないだろう。
爛熟期の甘美さ、といった感覚はそれらの音楽から嗅ぎとることができない。あるのは無表情で漠然とした期待、そしてそれに見合う代価を支払うべきか否かという無言の圧力から体をよじり矛先をかわし、致命傷を避けようとする負け方の選択肢か。
批評、批判は外からも内からも聞こえてこない。延命治療を断れるのはまだ意識があるうちは当人、そうでない場合は近親者に限られる。