批評や解釈は誤読、誤謬の積み重ねであり、結局音楽家は無自覚に創出してしまったものに対し安直すぎないよう細心の注意を払いながら適当な言い訳を迷路のように張り巡らせていくしかなかった。思い込みの強度のみで一部または多数の共感を得られた時代もあるにはあったが、それとて笑いを取るに至るほど激越なものは少なかったわけだし。コンプレックスはパイ生地のように幾重にも折り畳まれているが、中になにも入ってなければおいしくもなんともない。
メディアはと言えば誤読で横転転覆炎上するのもいやだし、そもそも音楽聴いて四の五の考えるなんて面倒、とどのつまりは制作者に喋らせとけば間違いない、ということで手っ取り早くインタビュー、作家は周到に理論武装して臨むも話しには相手がつきものなのでついつい和んで「思ってたのと違う」「こんなアホやったんか」とただでさえ僅かな支持者の失笑と失望を買う事となる。だったら最初から録音データだけ羅列してオワリにしとけばいいものを。
そういえばコーイチロー(渡邉)が生前に「アメリカでガレージパンクの凄い本が出たんだけど厚くて送料が高いから要るなら一緒に注文するよ」と海外から取り寄せてくれたこともあった。「Children of Nuggets」は米ガレージパンクのコンピレーションLPのリファレンスブックで収録曲目、収録バンド名、出身地、レーベル名などによってデータ分けされている画期的な一冊だったが、コーイチローは「余計な説明とか評論が一切載ってなくてデータだけってのが凄くいいよね」と喜んでいたことをおもいだした。データってフェチだし。
かたやライブにしても爆音、轟音が有効な時代もあったかもしれないし、そういう演奏の方法しかない曲というのも確かにあるのだけれど、今となっては微妙なカッティングに宿る失意のニュアンスや曲間に漏れたため息までがフラットに持ち上げられてつまり音がデカすぎて何も聴こえない。最近サトウが「ライブの音量なんて小さければ小さいほどいいんですよ」と言っている気持ちも判る気がする。
sort ofのギターってやっぱりいいとおもわない? かさぶたが剥がれたあとみたいで。