魅惑のムード音楽

 あれは80年代末だったか90年代初頭だったか。あてもなく吉祥寺界隈をブラブラしたあと友達が働いていたレコード屋のドアを開けると彼は簡単な挨拶を交わすやいなや「これ知ってた?」と一枚のレコードを手にかざして見せてきた。近寄って見てみるとそれは70年代によくあった類のムード音楽、映画音楽などのスタンダード曲をレコード会社お抱えの楽団に演奏させた廉価企画盤の2枚組LPだった。ジャケットは当時の海外人気女優のお手軽なスナップ写真、いかにも廉価盤といった安っぽさで、エサ箱の中にあってもわざわざ手に取る人はまず居ないだろうと思わせるシロモノだった。「これがどうしたの?」と訝しがる僕に彼は「まあ中を見てみなよ」
 2枚組の見開きジャケットを開くと「いそしぎ」だの「枯葉」だの「スターダスト」だの収録曲目が並び、表ジャケットと同じ女優のカラーポートレイトが綴じ込まれている。それをめくると細かい字で印刷されたライナーノーツが現れた。「小説 ひまわり」「エッセイ 記憶の水たまり」と題された短編と散文のようだった。「最後の方、見てみなよ」と言われて目を移すとそこには「間章」のクレジットがあった。えっ、と驚く僕に彼は笑いながら「ビックリでしょ。オレも驚いたよ。買取で入った中に混じっててさ、こんなもの絶対売れないから捨てようと思ったんだけどたまたま中身確認してたらこれだもん。それにしてもどうしてこんなバッタ盤にライナー書いたんだろうね。それ、どうせ捨てるつもりだったからあげるよ。オレ、もうコピーしたし」
 家に帰って読んでみるとこれは他所からの転載ではなくこのアルバム用に書かれた文章だった。極力平易な文体で書かれたそれはいつになく感傷過多で、しかしながら特にメロディと記憶についてのエッセイには胸が詰まる思いがした。
 それにしてもそれが仕事だったとはいえなぜこのような誰の目にもつかないようなところにこのような文章を書き残したのかは謎だったが、晩年彼がロックマガジンに寄稿したマーク・ボランに関する文章にこういうような一節があったのを思い出した。「私は電気の武者やタンクスを中古レコード店で500円ぐらいで買ったのだがその時心底私はマーク・ボランの存在のアイロニカルなことに驚いたものだった。彼は一度は世に受け入れられた。しかしそのことによって逆に彼は彼の本質や決して世に受け入れられることのありえないものを永遠に隠しおおせたのだった」僕はそのようにして偶然このレコードに出会ったのだ。

 小学生の頃からモダーンに来ていた岩田くん(彼は10代の頃から間章に傾倒していた)が亡くなった。昨年、生悦住さんの逝去をきっかけに30年ぶりに連絡が来て(彼は40代後半になっていた)一緒に何度か遊びに行き、松谷と3人で生悦住さんの墓参りにも行って、夏前に「またもう少し涼しくなったらね」と別れたのが最後だった。

 間が最後に寄稿していたロックマガジンの阿木譲も亡くなった。学校の帰りに寄った書店で偶然見つけたのが創刊第2号だった。その表紙を描いていた合田佐和子(僕と同郷だった)ももう居ない。

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