前々回からの続きでもう一席。75年9月号のニューミュージック・マガジン(現在のミュージック・マガジン)の「今月のレコード」のコーナーにルー・リードのメタル・マシン・ミュージックのレビューが掲載されている。通常、ライターによる評価が点数で示される冒頭の四角い枠の中には点数の代わりに斜線。湯川某による解説はかなり感情的で「これは音楽による殺人ゲームである」から始まり「私は針を落とした瞬間から心臓が不安のあまり早鐘を打ち、遂に2枚組の最後まで聴き続ける苦行には耐えられなかった、というよりアホらしくて放り出してしまった。第三の目などクソくらえである」「この秘密めかした謎解き遊びに驚喜したりわけのわからない音をありがたがる無責任な連中も多いだろうがそんなのは私に言わせれば偽善者だ」「まず不健康こそ美しさだ、殺人こそ最高のゲームだ、とふれ歩き、そのあとで首でもくくって貰いたい、そうすれば少しは信用するだろう」「これを音楽とは呼べないので点数を付ける事は出来ない。少なくとも2度とは針をおろしたくないアルバムである」とまあ激越このうえない。僕はこのレビューを40年後の現在の観点から糾弾したり笑いものにする気は更々なく、75年にこのアルバムが新譜として発売された時の大方の反応がこういった怒りやとまどいを隠せないものだったということ、該当レビューの掲載されている同じ号にビクターが「無限大の幻覚(メタル・マシン・ミュージックの邦題)」の広告を半ページをさいて載せているのが昨今とは違う、レコード会社に対するライターや音楽雑誌との関係性、力関係を表しているのが興味深かったのだ。
本盤の日本盤ライナーノーツは、多分それまでのルー・リード作品の解説執筆者である立川直樹や今野雄二に断られたのであろう、苦肉の策として小杉武久が筆を執っている。ちなみに今野雄二はその後アリスタ移籍後の「ロックンロール・ハート」のライナーでその小杉の解説(名指しにはしてないが)とメタル・マシン・ミュージックを発表したこと自体を揶揄したような文章を書いている。しかし70年代末に僕が通っていたある音楽喫茶兼バーでは深夜、1日の営業が終了するとマスターが「ちょっと耳の掃除してから帰りますか」と、よくメタル・マシンを流していたものだったが、そういう聴きかたをしてる人達も居るには居たわけだし。結局このアルバムが一般的に再評価されだしたのはパンク・ニューウェイブ以降のことだろう。
また同年11月号では本邦初登場だったファウストの4(邦題が「廃墟と青空」)が掲載されていて評価は100点満点で20点、編集長によるかなりシンラツなレビューが載せられている。勿論同号には日本コロンビアが「ヴァージン・レコードの中でももっとも発売希望が多かったアーティスト、ドイツのヴェルヴェット・アンダーグラウンドといわれるファウストが遂に登場!」として広告を打っている。こういった例はなにもルーツミュージック系に懇意でプログレ系に冷淡だったマガジンに限ったことではなく他誌でもよく見かけたものだった(ソフト・マシーンのファーストが「しっけた煎餅のようなアルバム」と評されてるのもどこかで読んだ)。
いまでこそしかるべき言説で評価されたり擁護されたり歴史的立ち位置としても重要視されているこれらのアルバムだけれども、たとえばメタル・マシンは当初、発売元である米RCAはRCAレッドシール(RCAのクラシック・現代音楽部門)から現代音楽・アヴァンギャルド作品としてのリリースを要望したがルー・リードは通常のポピュラーミュージック部門からのリリースにこだわった、という事実や、ファウストがクラシックの老舗レコード会社として有名だったドイツ・グラモフォンと契約する際にロックに無知だった会社幹部を「ファウストは(当時アメリカで爆発的な人気を誇っていた)グランド・ファンクのような凄いロックバンドで若者に圧倒的な支持を持つ」などと嘘八百を並べて丸め込み、真に受けたレーベルが「グランド・ファンクに対するドイツからの回答」として売り出そうとした、というような話しを後になってから聞くにつれ、先達ならではの苦労というのも忍ばれる。
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擦過傷
批評や解釈は誤読、誤謬の積み重ねであり、結局音楽家は無自覚に創出してしまったものに対し安直すぎないよう細心の注意を払いながら適当な言い訳を迷路のように張り巡らせていくしかなかった。思い込みの強度のみで一部または多数の共感を得られた時代もあるにはあったが、それとて笑いを取るに至るほど激越なものは少なかったわけだし。コンプレックスはパイ生地のように幾重にも折り畳まれているが、中になにも入ってなければおいしくもなんともない。
メディアはと言えば誤読で横転転覆炎上するのもいやだし、そもそも音楽聴いて四の五の考えるなんて面倒、とどのつまりは制作者に喋らせとけば間違いない、ということで手っ取り早くインタビュー、作家は周到に理論武装して臨むも話しには相手がつきものなのでついつい和んで「思ってたのと違う」「こんなアホやったんか」とただでさえ僅かな支持者の失笑と失望を買う事となる。だったら最初から録音データだけ羅列してオワリにしとけばいいものを。
そういえばコーイチロー(渡邉)が生前に「アメリカでガレージパンクの凄い本が出たんだけど厚くて送料が高いから要るなら一緒に注文するよ」と海外から取り寄せてくれたこともあった。「Children of Nuggets」は米ガレージパンクのコンピレーションLPのリファレンスブックで収録曲目、収録バンド名、出身地、レーベル名などによってデータ分けされている画期的な一冊だったが、コーイチローは「余計な説明とか評論が一切載ってなくてデータだけってのが凄くいいよね」と喜んでいたことをおもいだした。データってフェチだし。
かたやライブにしても爆音、轟音が有効な時代もあったかもしれないし、そういう演奏の方法しかない曲というのも確かにあるのだけれど、今となっては微妙なカッティングに宿る失意のニュアンスや曲間に漏れたため息までがフラットに持ち上げられてつまり音がデカすぎて何も聴こえない。最近サトウが「ライブの音量なんて小さければ小さいほどいいんですよ」と言っている気持ちも判る気がする。
sort ofのギターってやっぱりいいとおもわない? かさぶたが剥がれたあとみたいで。
laughing
74年に日本盤が発売になったピンク・フロイドの初期の2枚をカップリングした「ナイス・ペア」のライナーで、シド・バレットについて渋谷陽一は夏目漱石を引き合いに出し、漱石は自己のノイローゼと対峙しつつその苦闘によって名作を産み出したがバレットはその狂気と馴れ親しみすぎて違う世界に行ってしまったのだと指摘している。この時期、バレットは既にドラッグの後遺症で廃人と噂され伝説好きなロックジャーナリズムの格好の餌食になっていたので彼に対する評論は多かれ少なかれサウンド面というよりも、こういったアーティストのメンタリティー崩壊を主題としたものが殆どだった。ほぼ同時期、間章はブランショの踏みはずしを援用しつつバレットをそのサウンド面から評論したりしていた記憶があるけれどあまり人目に触れることはなかったはず。
バレットのファースト・ソロがリリースされたのが70年、ほぼリアルタイムで日本でも東芝音工からリリースされたのだが(僕は当時小学生でそんなことは知る由もない)、その初版LPの帯には「ピンク・フロイドの創始者、シド・バレット遂に登場!」とある。同年後半にはフロイドの世界的な出世作となる「原子心母」が出版されるのだがこれはその数ヶ月前にリリースされている。勿論この時点でこのアルバムは「英国の先鋭的なアンダーグラウンド・グループのひとつ」でしかなかったピンク・フロイドを脱退した元リーダー、シド・バレットの純然たる新譜であり、いまだ数々の伝説にも彩られてはいない。
その日本盤初版ライナーの執筆者はこれ以降音楽雑誌等でついぞ名前を見た事の無いひとなのだが興味深い記述がある。ご存知のとおりこのアルバムにはジェームス・ジョイスの”Golden Hair”の詩がそのまま使われた曲があり、そのジョイスとバレットの親和性やバレットの曲の特異性について言及している部分があるのでかいつまんで要約してみると、「ジョイスの”フィネガンの宵祭”に於いては文学を音楽に近づけようとする実験が試みられていて、これは意味と音韻とリズムの集成をつくる新造語によって書かれている。シド・バレットの大部分の曲はメロディックではなく、音楽的に言えばモード手法的な曲の作り方で、コード進行というよりスケールだけをたよりにしている。ここで聴かれる音楽の重要な部分は、リズムと詞の関係だけと言っても過言ではなく、言葉の意味と音韻とリズムの中から自然に出て来るメロディーをそのまま曲に作り上げている点でジョイスとの接点を見ることが出来る。近年の(注:’70の頃)ロックはモーグ(シンセサイザー)など電気的な音の加工や過剰なエフェクトでサウンドに変化をつけようとしているものが多くみられるがそれは本質的なサウンドの改革にはなりえない。シド・バレットの音楽への観点はそれらとは全く違っていてリズムと音韻の関係性による改革なのだ。1970年にこういった方法論を持った音楽が出現したという事実を記録として残しておくことが重要なのではないだろうか」という具合だ。 実際の記述はこの年代の新しいロックの動きや傾向などにも及んでいて、引用した部分だけだとけっこう乱暴な推論にも見えるし、全面的に肯定出来る訳ではないが今日までバレットの作品をリズムと音韻から解読しようとした評論はあまり読んだ事がなく、その意味でも、またリアルタイムで書かれた、という事実もあってこのライナーはいまだに鮮度を失っていない。そしてこの時代の洋楽ロックのリスナー、音楽雑誌の読者のほとんどが10代半ば(中学生)から20代前半(大学生)ぐらいまでだったことを考えると(なにせdon’t trust over 30の時代だし)更に興味深い。当時このアルバムを買ってこのライナーを読んだ子供達はどう感じただろうか。
僕が読んでいて面白いと思うものは、近年やたらと乱発されている、それぞれの作品が歴史的に俯瞰され考察され細分化されカタログ化されキレイに陳列されたディスクガイドのようなものではなく、まだ海の物とも山の物ともつかない異形の音楽が出現したときのそれぞれの時代に於ける音楽ジャーナリズムの反応なのだ。古くはプレスリー、ビートルズ、ディランからサイケデリック、ハードロック、プログレ、ジャーマンロック、パンク、ニューウェイブからノイズに到る、つまりロックの発生から死(と断言する)まで、彼等はそれぞれの時代にどう扱ってきたのか。
お手軽な形容詞だらけの印象批評、メディアやマーケティングに絡めた時代解釈ばかりが目につく昨今、こういった文章を読み返してみると、ノスタルジーではなく却って新鮮に感じてしまう。
紙と店
モダーンミュージックの店舗が閉店してそろそろ1年になる。モダーンのみならず個人経営のレコードショップは年々減少して最早絶滅寸前だそうだ。いまやマニアックな音楽情報はメジャーからマイナーまで、ウソかホントか判らないような事も含めてネット上に溢れかえっているが当時はレコード屋か紙媒体、知り合い同士の口コミぐらいしかなかった。
そうなるとメジャーな音楽誌だけではパンク以降の時代のめまぐるしい変化を逐一フォローする事が不可能になり、もっとマニアックな連中は勢いミニコミにまで手を伸ばすようになる。
70年代末、原宿〜青山近辺には極楽鳥、SMASH、赤富士といったパンク系古着と輸入レコードなど雑貨を扱う店が点在していて、キラー通りのあたりにあった極楽鳥(かSMASHのどちらか失念)でバズコックスのブートLPを買った折りに店員に「これ、バズコックスの好きなひとたちが作ったミニコミなんですよ」と教えられた手書き・コピー・ホチキス留めのミニコミ、その名も「POP新聞」を買った。バズコックスやトーキング・ヘッズ、デビューしたての頃のプラスチックスとかを題材に、誌名のとおり当時のポップ・カルチャーを論評する内容だったと記憶する。その店では西海岸のアンダーグラウンド・シーンを扱うSLASHなどの海外タブロイド誌も置いてあったので定期的に寄って、POP新聞も新しい号が出ていれば購入し、たしか3〜4冊ぐらいは持っていたはずだ。当時ぼくは横浜に住んでいて記憶が間違ってなければそのミニコミも神奈川発だったということもあるかもしれない。編集長の椎名謙介氏がすきすきスウィッチというバンドを始めた、というのもそれで知った。
昨年、長年の友人でかつてCISCO・アルタ店に勤務していてその後、90年代に野界くんと新宿にノイズ系専門店クララレコードを立ち上げたMくんと話していたらその椎名氏とはCISCO時代の知り合いで当時お世話になったときいた。クラブキング、ピテカン系の人だったようであのミニコミやその後のすきすきスウィッチ周辺とはだいぶイメージが違ったので驚いた。
関西で発行されていたミニコミで東京で入手できるものもあり、どこで買ったか忘れてしまったが(馬場のオパス・ワンか?)大阪の「DISK GALLERY」という割と手の込んだ装丁のものが面白く、80年代前半、5号ぐらいまで続けて買っていた。内容的にはニューウェイブから軽めの現代音楽まで、という当時のロック・マガジンに多少影響を受けたようなレコード・レビューが多かったようにおもうが、METRO、ORCHESTRA LUNA、SLAPP HAPPY、BEACH BULLIESなどを取り上げていたことから、ロック・マガジンで紹介されたものから自分たちのテイストに合致したものをすくい上げていく、という印象があった。
その何号(83年?)かでいろいろなレコード・ショップのオーナーにアンケート(だったかインタビューだったか忘れた)というのがあって、たしかこれから注目すべき音楽は?みたいな問いにモダーンミュージックの生悦住氏が「もうニューウェイブとかは面白くなくなってきたのでこれからは60年代のサイケデリックな音楽を遡って聴くようになるのではないか」というようなことを語っていた。これは随分後になってサイモン・レイノルズの「ポストパンク・ジェネレーション」で筆者がアフターチャプターの項で述べていた英国での83〜84年の気分とキレイにリンクする。
ちょうどその頃、以前にも書いた下北のMAXIで60年代マイナーサイケ・ガレージパンクのコンピレーション、「Psychedelic Unknowns」を入手した。アヴァンギャルドやニューウェイブ、好きだったジャーマンロックさえ最早不要な物におもえた。ほどなくMAXIは閉店し、当時よく遊んでいた若江くんという広告業界の友達(ちなみに彼はWireless Sightという音楽ユニットをやっていて一緒にスタジオでセッションもしたような気がする。それ以前の録音をロック・マガジンにデモテープとして送ったら勝手にヴァニティのカセットボックスに入れられて、連絡してもまったく返答がなかったので仕方なく自分で買った、と嘆いていた)に「石原くんはモダーンなら結構趣味が合うんじゃないかな」と言われて明大前に通うようになった。それ以前から店には何度か行った事はあったがとにかく廃盤(特にイタリア系)が高いというイメージで店の人と接触したことは無かった。
とりあえず不要になったレコードを処分したくて何枚か持参すると店長は「お、LAFMS、これ珍しいですね、もう要らないんですか?」「いや、ダブリで持ってたので。。」「じゃあアレとか知ってます?ESPの、トニー・コンラッド関係の。。」「クロマニヨンですか?持ってますよ(実はトニー・コンラッドはまったく関係なかった事がのちに判明)」「じゃあ、サイケ系のティム・バックレーとかピーター・アイヴァースとかタイニー・ティムは?」「ああ、好きです、何枚か持ってます」「じゃあフリージャズとかも。。」「ええ、先日、高木(元輝)さんと小杉(武久)さんのセッション観ましたよ。録音したんですが聴きますか?」「マジっすか(とはさすがに言わないがそういう勢いで)、ぜひダビングを」みたいなイニシエーションが延々と続いたのだった。当時はそういったマイナーなレコードやアーティストを好んで聴いている人口も少なかったのだろう、同好の士ということで歓迎されたようだった。
当時ぼくは20代前半だったが(ということは店長は30代半ば、どうみてもおじさんにしか見えなかったが現在もその頃とあまり変わってないことの方が凄いのかも)お客さんや関係者も20代前半か学生など、同世代のひとが多かった。バイト店員も何人かが日替わりで、中でも今ではムジカ・ロコムンドを編纂してブラジル系音楽の大家となったらしい小山(雅徳)くんは当時大学生(だったとおもう)でニューヨーク・パンクとケヴィン・エアーズのヘヴィー・コレクター、同じレコードを各国盤や帯付きで何枚も持っていた。ある日、店に行くとカウンターの前にホワイトハウスやカムなどのレコードとカム・オルグのバッジや機関紙、グッズなどが積み上げられていた。小山くんに「これは?」ときくと「このひとが処分しにきたんですよ」と言って、カウンター横で人懐っこい笑顔で「ども、ども」と挨拶する男を指差した。「凄いですねー」と言うと、「いや〜もう聴かないんで〜 直でカム・オルグから買ってたんでいろいろオマケなんかも送ってきてたんですよね〜」
勿論当時はメールはおろか家庭用ファックスさえ普及してなかったので海外とは手紙でのやりとりだったはず。「コンラッド・シュニッツラーとも文通してたんですよ。ヘンな自主カセットとかいろいろ送ってもらったり」「自分でもノイズみたいなのもやってたんだけど今はもっとヤバいロックンロールみたいなのがやりたくて。。あ、松谷です〜、よろしく〜」
暫くして店に行くとその松谷がカウンターの中にいた。このあたりの前後関係の記憶が不確かなのだが、遊びに行くと「ジョナサン・リッチマンの新しいLP入りましたよ」「クラウス・ディンガーの新譜(ネオンディアン)、凄かったよ。在庫1枚あるけど要ります?」みたいによく声をかけてくれた。店には各ジャンルのやたら深い知識と資料(レコードや本)を大量に持っている人が集結していて彼等に個別に対応するのもなかなか大変だったはずだ。松谷とはその頃、趣味というか「いま聴きたいもの」が共通していて、僕も松谷もそれぞれがやっていたバンドが行き詰まりはじめていた。で、どうなったかって?それはまたの機会に。
話しを戻して、もう少し後になるとモダーンの客層は更に若返っておなじみ中原昌也や現DOMMUNEの宇川直宏や前述のクララを始める前の野界くんも常連だった。特にハタチになったばかりぐらいだった中原はヒマだったらしくよく遊びに来たが、その度、店の郵便物運搬を手伝わされたりして「一応、ぼく客なんですよ!」と軽くキレたりしていたものだが、愛嬌があったので皆から可愛がられていた。自主で作ったカセット作品もよく持って来ていて、結構売れたりしてたのだが(これはアーティスト名ナシで売って下さい、と頼まれた作品もあったが売りようがないので僕が勝手に名前を付けたものもあった。すまん)いつだったか店からの帰りの電車でメルツバウの秋田さんと話していて、最近の若手のノイズ系(暴力温泉芸者、ゲロゲリ、クリミナル・パーティーなど)ってどうですか?と質問したところ、「若い世代にとってノイズが既にパロディの対象になってるのが興味深いですね」と話してくれたのが印象に残っている。中原たちにとっては単にパロディと片付けられるものではなかった、というのは彼等のその後の活動をみても判るのだが。
宇川くんはその後購入したというカッティングマシーンでTWOTHOUSAND MANIACSというアセテート盤ブート専門レーベルを始めた。ホワイトハウスやM.B.などを豪華な装丁で作って店に持って来ていたが「ホワイトヘヴンのアセテートも作りたいから音源ください」と言われて「いやまあ、そのうち」と断ったことがあったと今思い出した。同じ頃彼が作ったDEEPのラスティ・エヴァンスのアセテートはもらった記憶がある。
他にも、どうみても子供なのにアヴァンギャルド系やレコメン、プロレス(モダーンはプロレス好きが多かった)などに深い造詣を語るような客も居て、店長が「君、いくつなの?」ときくと「小6です」と言われて腰を抜かした、いう話しもあった。彼は岩田くんといってその後カセットでノイズ系の作品を制作して店にもってきたりするようになる。現在の様に固有名詞さえ知ってれば誰でもどんなマイナーな情報にもアクセス出来る時代に、例えば小学生がローランド・カインを聴いてようがイングラム・マーシャルを語ろうが別に驚きはしないが(一応驚くけど)、その頃そういったアーティストに10代でたどり着くには余程物好きで、時間とお金と特別な熱意が無ければ無理だっただろう。
話しが脈絡無くなりそうなので続きは気が向けばそのうちまた。
20th Anniversary
don’t feel lonely till I thought of you
election
someone who cares
winter meadows
party shadows
yes, wise men speak because they have something to say, fools because they have to say something.
someone had to pay the price.