living sickness

 70年代末から始まった60年代ガレージパンクへの再評価(もちろんその先達としてレニー・ケイのナゲッツがあるのだが)は今は一段落した感があるけど90年代あたりまではそれなりに熱い季節があった。
その頃、僕らの周り、という極めて狭い括りでもモダーンミュージックのハウスマガジンであるG・Modernにガレージパンクの記事を連載していた岡田くん(有間凡)の斬新な視点と影響力で既に入手困難だった初期ガレージコンピのLPを集めだす人が何人もいた。
 ある短い時代の、それも十代の少年少女たちの集合的無意識から湧き出てきた、一過性の現象としての60年代ガレージパンク、それに関する膨大な知識に裏打ちされた、ラフ・タフ・ワイルドだけではないガレージパンクの捉え方を提示し、海外の伝説的ロック・ジャーナリスト達の重要文献の邦訳、コルタサルやパヴェーゼを違和感無く並列させる岡田くんの文体(彼はたしか立教の仏文出身で、「学校で間章の論文を見つけたけどやっぱりバタイユだったよ~」と笑っていた)は出色だったとおもう。大学では初期の光束夜に居た横山宏が先輩に居て影響を受けたらしく、「ある日さ~学校で横山宏が突然アロハシャツ着てきてさ~、あっ、とおもって、それってティム・バックリーのセフロニアの裏ジャケでしょ?って言ったらやっぱそうでさあ~」と笑ってた事を思い出す。あの裏ジャケの、アロハに笑顔で両手を広げた写真の持つ絶妙なニュアンスはあの頃の僕らに共通した痛痒い感覚だった。中原(昌也)も岡田くんの文章をかっていてどこかの出版社からまとめて出せればいいねと話してたけど未だ実現していない。

 当時60年代ガレージにハマっていた人には特徴があって、10代でドイツ・ロックを聴きだし、その後数年単位で→ノイズ、アヴァンギャルド→60年代サイケ、アンダーグラウンド→60年代の無名なガレージパンク、と移行して行く、というのが何故か多かった。日本で初めてのドイツ・ロック系レコードのカタログとなったロック・マガジン77年の別冊本も執筆者は山崎春美、坂口卓也、牧野美恵子でおそらく全員ハタチ前か少し過ぎたぐらいだっただろうから符牒が合う。そのころ僕らは高校生だったが、多分、岡田くんも僕もそういう流れで聴いて来ていて、例えばSunn o)))のスティーヴンみたいなひとがメタルからドローン、やがてアヴァンギャルドにいく、というのは理にかなっているというか順序として普通だとおもうが、それを逆行するような聴き方はやはり日本のマニアックなリスナー特有な現象なのか。ずっと理由を考えているんだけど説得力のある回答はおもいつかない。もちろん、10代から脇目もふらずノイズ道、ドイツロック道を邁進したひとも多く居るので一概にパターン化している、とは言えないが。
インターネット登場以降ではそういう聴き方をするひとも居なくなったような気がするし、単にあの時代の(それもすごく狭いサークルの中での)価値観だったのかもしれない。
彼は僕が店を辞めたあと入れ替わりでモダーンに入ったがその後体調を崩して実家に帰って療養中ときく。

最後の方に店で会った時、こんな本が出たよ、と岡田くんが興奮気味に語っていた、ポピュラーミュージックとアヴァンギャルド・アートの関係性を多分「場」というキーワードを足がかりに、パリの1800年代末(jazz)からニューヨークの1900年代末(no wave)を、世紀をまたいで連結させ論評したとおもわれる「ビトウィーン・モンマルトル・アンド・ザ・マッドクラブ」という、タイトルだけでもワクワクする洋書を僕はまだ読めていない。

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