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here today gone tomorrow

ほら、だんだんつまんなくなってきた。そんなのとっくに知ってるって?おつかれさま。
あいつは次回、必ずしくじる。それはもう判ってるんだ。
限りなくどっちつかずの中に居続けることは泡の様に湧いてくる観念を言いくるめることができる脳が必要になる。
痕跡は細心の注意を払って隠し通さなくてはならないが、通例として爪楊枝の一本でも立てておくのが礼儀なのかもしれない。仕事は仕事として。

でも、そろそろかな。せめて言い訳の数珠つなぎで身動きが取れなくなる前ぐらいには。

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manner invisible

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another place

 知らないこと、というのは幾らでもあるものだ。先日、二見くんと話していて90年代あたりの渋谷系、サバービア、フリーソウル、モンド(もとは米RE SERCH誌のインクレディブル・ストレンジ・ミュージック)とかの流行に関わっていた人達は実は微妙にリンクしておらず、それぞれ立ち位置も違っていた、ということを知った。てっきり同じような人達が仕掛けたものだとばかり思ってたのだが。同時期、汚泥の中でのたうち回っていた僕のような人にはどれもほとんど関わりのない世界だったがそれは、例えばレコ屋やラジオでどうも最近アル・クーパーのジョリーをよく聴くなあ、懐かしいな、なんで今頃リバイバルしてんのかな、程度の認識だったのだ。また、モダーンでは80年代から「ACID FOLK」という名称のエサ箱を作っていたのだが、当時カップルで入って来た女の子が「なにコレ、アシッドフォークって~アシッドジャズなら判るけど~」と爆笑しているのをきいても、こちらが「??」なのだった。
 渋谷系という括りがある、と知ったのはモダーンの帰りに、後にフィルモアレコーズをやりはじめる平野くんに「友達のライブがあるのでいきませんか?」と誘われて原宿クロコダイルに行った時だった。フロアは似たような格好の若い男の子女の子で一杯(オシャレ、というのでもなく、一応アニベー着てるようだけどどこかあか抜けない)で80年代初頭に流行ったネオアコを弱々しくしたようなバンドが幾つか出ていた。「いま、若いコたちの間でオレンジジュースとかモノクローム・セットとか流行ってるんですよ」と言われて、なんで?10年前に流行ったやつでしょ?と思ったが、平野くんの友達の女の子のバンドでタンバリンを叩きながらジャンプしていたのが知り合いの荒川くんでますます訳が判らなくなった。
 荒川くんはモダーンのお客で(大学生だった)、当時、ウチの店では何の価値も見いだしておらず、中古で入ると数百円で出していた80年代ネオアコやelレーベル系のレコードを「安いですね~渋谷あたりじゃ高いんですよコレ」などと言いながらよく買って行っていたが同時にザッパコレクターであり、マイナーサイケの再発LPなどにも手を出していた。
 ある日、「僕らのレコードが出来たので置いてもらっていいですか?」とフェイヴァリット・マリンというバンドのシングル盤を店に持って来て、いいよと10枚預かったが聴いてみるとどう考えてもモダーンでは売れるような音ではなかった。一週間ほどして彼がまたやってきて「預かってもらったレコード、売れましたか?」というから「ごめん、まだ一枚も売れてないよ」「良かった~もう全部売り切れちゃったんですよ~返品いいですか?」と言われてまた仰天。いろいろきいてみて、そういうシーンがあって東京の音楽業界では注目されているのだという事をようやく理解出来た。彼が初期のフリッパーズギターのメンバーでそれ以降もそのシーンの周辺で活動している事も。
 その後、モダーンを辞めたこともあって荒川くんとも疎遠になったが10年ぐらいしてまだ新宿にあった頃のリキッドルームでコーネリアスとゆら帝の対バンがあって、ポリスターのディレクターになっていた彼と再会した。
 彼は「僕の事、覚えてますか?石原さんのバンド、今ドラマー探してるってウワサで聞いたんですけど、僕、やりたいんです、どうですか?」と言ってきた。僕は彼のドラムなど聴いた事も無いのに、たいして深くも考えず、「あっ、じゃあ今度やってみる?」と返答したのだが、おかげでその後何年か彼にとってはドラマーとして受難の時代が来る事になるとは露程も思ってなかっただろう。。。まったく趣味も音楽性も違う僕とどうして一緒にやりたいとおもったのかも判らないままだったし。
 一緒にやりだしてから、彼の幼少時代の驚くべき(でもないか)芸能活動とか渋谷系ウラ話とかもさんざんきかされたのだがそれはここには書かないでおく。というか、書けない(笑)

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 なんだか自分も身の回りもサツバツとしてるので、普段はしないんだけどちょっと音楽紹介など。
現代音楽や所謂シリアス・ミュージックの作曲家の中でも長い活動歴のある時期、突然ポップス、ロック的なアプローチをとったりするひとが居る。
そういう作品にかぎって良質なものが多かったりするのは何故なのか。

Blue Gene Tyrannyのこのアルバム、特にこの曲は35年近く前に初めて聴いたときからずっと頭を離れない。

Peter GordonのLOLOの最初の12インチ。渋谷のナイロン100%で流れているのを聴いて、すぐ店を出て近所のCISCOへ買いに行った。80年ぐらいだったと思う。

これは坂本に教えてもらった曲で、いいな、でもどっかで聴いた事が。。。と思ってたらTelexの80年のセカンドでカヴァーされてたのだった。だから知ってたのか。慌ててレコードを買ってみたら、曲を書いてるのがかつてプログレ・アヴァンギャルドとリンクする時期もあって少しは知られていたイタリア現代音楽作曲家のRoberto Cacciapagliaだと知って二度びっくり。

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May

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ある一定以上の

 坂本の新譜を聴いた。ちょこちょこ話はきいてはいたが、いろんな意味でここまでとはおもわなかった。
 2014年の日本でこういう歌詞をこういうサウンドに巧妙に溶け込ませて歌うひとがヒップホップでもラップでもなくロック(本人はもうロックではないと言うだろうけど)に居たこと。
 これを聴いて、楽しくなる人、ウキウキしてくる人はおそらくほとんどいないだろう。どこか居心地の悪さや後味の苦さを感じざるをえないだろう。さながらリトマス試験紙のようでもある。
 底の浅い文学性を徹底的に排除し、平易な話し言葉を狙いすましたように組み合わせてあるしなやかな文体。パロールがエクリチュールに次々に反転していく様は聴いていて痛快でさえあり、彼の全キャリア中、最もコンセプチュアルな強度を持った作品だということは間違いないだろう。そしてここから見える眺望からはたとえば彼が近年「自分でも気持ちいいほどなんの興味も無い」と言っていた彼の在籍したバンドの事象などもはや遥かに遠い点としてしか俯瞰できない。
 ライブをやらない事で完結する作品。今後所謂「意識的」といわれるアーティストのとる行動は「ライブしかやらない(作品もライブ録音のみ)」か「ライブはやらない(録音物がすべて)」の2極に分かれて行きそうな予感がする。そしてそれはノイズやアングラからJロック(?)に至るまで、「エンターテイメント」も「おもてなし」も不要な僕にとっては至極当然な事の様におもえるのだ。

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phaedra

若い頃、自分にとって音楽とは好きなレコードを部屋で心ゆくまで味わう事だった。決してライブを観にいそいそと出かけて行ったりそのミュージシャンの私生活を探索したりすることではなかった。もちろん興味はほぼ洋楽オンリーだったのでライブに接する事もあまりなかったが、もともとライブに対する渇望なんてのも無かったようだ。それは僕にとっては「確認」でしかなかったからだ。
スーサイドも、ピーター・ハミルも、ジョナサン・リッチマン、アレックス・チルトン、ルー・リード、ジョニー・サンダース、ケヴィン・エアーズ、ブルー・チアーもミック・ファレンも確認だった。
肉体性、ということに対して不感症だったのかもしれない。ドロドロしたもの、血なまぐさいもの、誤解を恐れずに言えばサブカルチャーと言われるものの大部分を覆っているある種の被害者意識をタテにしたような空気や表現も苦手だった。そういうものにはずっと無関心だったし無関係だったとおもう。
とにかくどこかに属していたくなかったのだ。そうすると出来る事はただ象徴や集団からひたすら逃げ続けることだけだった。いま自分が居るのであろう場所からも遅かれ早かれ逃げ出すことになるだろう。
エロスもタナトスも、うすーい均一な透明性の中に溶解してしまったような、そんなぽかーんとした場所、それが何かはとっくにわかっているのだが。

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days

 あれはバンドを始めるかまだ始めてなかった頃か、80年代はじめの方だったとおもうが友達の小野幸生から連絡があって、最近夜中の旗ふりのバイトで町田(町蔵)と知り合って仲良くなった、こんど国立で別の友達の引っ越し祝いがあり、町田も来るから遊びにこないかという事だった。ひとりで国立あたりまで行くのも面倒だったので坂本哲也に電話したらヒマだから行く、というので一緒に行くことになった。

 坂本哲也の姉は坂本ナポリ(本名)といって日芸在学中に山崎春美と知り合い、JAMやHEAVENに「ナポリの夢日記」を連載していた。その絡みからか弟の彼も初期の腐ってくテレパシーズに参加したりしていたが、坂本が居た頃は山崎がボーカル、角谷がギターでドラムの女の子が上智だったので大学のサークルを借りて練習していたそうだ。そういえば一度、坂本哲也の描いた絵がHEAVENの最初の頃の号にカラーで載った事があったが彼の家に遊びに行くとそのキャンバスはベランダで雨ざらしになっていた。もうその頃は、姉弟ともにその界隈とは疎遠になっていたようだが僕と知り合ったあたりから坂本はまたバンドをやろうかなと言い出していた。ナポリは「洋ちゃんと哲ちゃんがやったら絶対面白いよ、やりなよマネージャーやるから」などと焚き付けるのだった。実際しばらくあとに松谷が加わって体制が整った頃「新宿ロフトでやりたいな」などとまったく無名のくせに生意気な事を言っていたらナポリは本当にロフトでの主催企画を取って来た。あとできいたら僕らの企画をやるかわりに彼女が勤めていた音楽事務所から当時人気のあったシーナ&ロケッツが別日にワンマンをやるという条件だったそうだ。まことに申し訳ない。

 話を戻すと国立は当時ペンギンカフェという喫茶店に2、3度行っただけでほとんど知らない街だったが小野が駅まで迎えに来てくれた。小野にその友達はどういう人なのか、ときくと、面白いひとだけどすごい酒飲みで「太宰は決して酔い潰れなかった」とか言いながらいつも酔い潰れてる、というので僕と坂本は面白がって便宜上、太宰と呼ぶことにしたが本当は三谷という名だった。
家に着くと黒っぽい格好の人達が集まってGreat Rock’n Roll Swindleのビデオを見ていた。しばらく後になって気がついたがレッドや光束夜の金子寿徳、高橋幾郎も居たとおもう。
その古いけれど広い一軒家は三谷と彼女の藤沢みどりが借りたようで、僕らはしばらくダラダラだべったり飲んだりしていたが段々退屈してきたので夕方前には帰る事にした。結局町田は来なかった。

 後日、また小野から連絡があって先日の藤沢みどりと一緒に僕の家で彼等の制作した8ミリ作品上映会をしたいという。何日かして小野と藤沢はそれぞれの作品と映写機、酒を大量に持ってやってきて僕の部屋の白壁に映したのだが上映もそこそこに飲みはじめ、あっというまに泥酔して面倒な事になりそうだったので夜半には追い返したのだった。
 随分あとになって仙川ゴスペルで自分のバンドがマヘルと対バンしたとき三谷と久しぶりに会った。彼はマヘルのベーシストになっていた。藤沢はしばらくして宝島かどっかから本を一冊出したときいた。その頃新宿で一回会った事があるがその後は知らない。

 小野はそのあと写真をやりだしてシティロードでバンド系のアー写やライブを撮ったりしていた。評判も良かったようで、エンケンのやたら大きいジャケットのCDの写真や、フリクションとか色々なミュージシャンから写真を依頼されていたようだ。ちなみに僕らの最初のLPのジャケット写真も小野である。そのうち当時日本に居たジョン・ダンカンと知り合って一緒に屠殺場まで写真を撮りに行ったり、すとれんじふるうつのあった鶴巻温泉あたりでウロウロしてたり新宿ロフトでホモ系芝居に出たり写真の方のパトロンがついて表参道で個展をやったりしてたが今はどうしてるか知らない。
 僕らはいよいよバンドをやる事になってベースが居ないので坂本が高校の同級生の中越を呼ぶ事になった。ある日3人で吉祥寺のぎゃてぃに「サイケデリック・スピード・フリークス」というイベントを観に行った。そのイベント名は科伏氏がJAMに連載していたサイケ記事のタイトルだったので、これは、ということになったのだとおもう。客は僕ら3人のみ、よく見ると「サイケデリック・スピード・フリークス」というのはイベント名ではなく出演するバンドの名前だった。あとになってそれがのちのハイライズの前身だったと知った。光束夜も出ていたと記憶する。ぎゃてぃには同じ頃メルツバウ&NULLを観に行ったがそのときの演奏と音圧には驚いた。いまは安易に爆音とか轟音とかいうけど、そのときのライブを越える音量、音圧のライブはいまだ聴いた事がない。
 でも僕らはその頃、ノイズでも文学系でもないやり方を探していたのだった。

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fluide

ライブを観にUFOへ。豊田道倫と三上さんのバンド(になったらしい)。
豊田くんは名前は知っていたが初見。アコギの弾き語りスタイルで、昔から所謂フォーク、SSWにはさしたる理由も無く(本当はある)悪意を持っているぼくとしてはどうかとおもったが、まったく違っていて最後まで聴いた。軽い打ち上げがあって、バンドスタイルでやっているCDをもらったので聴いてみたが印象は同じだった。もう死んだあるミュージシャンの79年のアルバムを思い出した。

三上さんのこの組み合わせでのライブ、前回もそう感じたがソルボンヌ、カルチェ・ラタンの68年。actuelやShandarというと安易すぎるのでやめておくがあのシンバルを聴くとどうしてもマレイをおもいだしてしまう。テュスクは居ないけれど。

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煌めくドイツ・ロック

 ジャーマン・ロック(またはドイツ・ロック)がクラウトロックという呼称で世界的に定着して久しい。元々アメリカでは70年代からそう呼ばれていたがそこにはドイツ人のやってるロックだってよ、みたいな蔑称的な意味合いが強かった。
 日本ではその昔からジャーマン・ロックは所謂プログレッシヴロックの中でもリスナーの間で評価は高く、70年代でプログレといえばブリティッシュ・ロックとジャーマン・ロックだった。タンジェリン・ドリーム、カンやアモン・デュール2は東芝からLPが発売されたこともあったしブレインの権利を持っていたテイチクからはグルグルやグローブシュニットなどが当時発売されていた。アモン・デュール2が「神の鞭」から「ライブ・イン・ロンドン」までの全アルバムがほぼリアルタイムで日本盤でリリースされていたのは今となっては驚異だが、それでもやはり数少なく高価な輸入盤でしか聴けないものがほとんどだった。
 74−75年頃、マニアックにロックを聴いていた中学の同級生が2人居て、学校の帰りはだいたい3人で行き着けのレコード屋でタムロしていたのだが、日本盤LPのライナーノーツや、たまに音楽雑誌に載るドイツロックの記事に取り上げられていた国内未発売のレコードが聴きたくて仕様がない、なんとかならないか、とみんなで店長に陳情したことがあった。その若い長髪の店長は「気持ちは判るけど難しいよ」と言って首を横に振ってたのだけれど、ある日、いつものように学校帰りに店に行ってみると「ドイツ・ロック・コーナー」が出来ていたのだ。どういうルートを使って仕入れたのか知らないが、そこにはアシュラ・テンペルや、ハルモニアの洗剤、クラスターの星ジャケをはじめ、見た事の無かったジャーマン・ロックのレコードが大量にあった(テイチクからクラスターやハルモニア、ノイが国内発売されるのはもう少し後になってから)。勿論全て新品である。さすがに無理をして仕入れたのか値段は高く、たしか1枚¥3500〜¥4000ぐらいはしたので友達と手分けして買う事になり、僕はまずアシュラ・テンペルのセカンド、Schwingungenを買った。新品にもかかわらずプレスが悪く、静音部が多い為プチパチが目立ったが聴けるだけでありがたかった。聴いていて感じたのは初期、特に「神秘」の頃のピンク・フロイドの影響が思った以上に大きいということだった。クリーム地にオレンジで描かれたジャケットのドローイング自体がフロイドの「モア」の裏ジャケがモチーフになっていたし、「神秘」のタイトルトラックそっくりの曲もあった。そういえばタンジェリンのファーストにも同じようなパートがあったと記憶する。
 ノイを最初に聴いたときは爆笑した。「NEU2」だったのだが針を落としてしばらく単一ビートが続くので一緒に聴いていた弟と「これ、このままで終わったりして」と言っていたら、多少音量が上がったり下がったりしたが本当に展開も歌もなにもなく終わってしまった。こんなのは聴いた事がなかった。高校の頃、地元のテレビ局の夕方のニュース番組のオープニングに「NEU75」の一曲目が使われていたときも仰天したものだった。誰かマニアックなディレクターが居たのだろう。
 
 あれから幾星霜、ジャーマン・ロックは90年代アメリカで再評価されて以降、現代の音楽に影響を与え続けるオリジンとして語り継がれているが、メンタルと肉体の過酷な実験の場であった当時のジャーマン・ロックが音響の面白さのみを軸にもてはやされているのをみていると、名称が「クラウトロック」になった時点でなにか重要なものが抜け落ちてしまったような気がしてしまうのだ。それは個人の聴き方の微妙な嗜好の取捨選択が実は全体を決定してしまうという、その個々の色のようなものが情報の過剰さによって希薄になってしまった事によるのかもしれない。立場上、そういった動向に目配せしておかなければいけない人もいるだろうが、僕は幸か不幸かそういう場所には居ない。現象としては面白いかもしれないが共感はできない、ということだ。
 
 当時のジャーマン・ロックの本拠地、中野レコードと青山のパイド・パイパーハウスの間には実際の距離以上の限りなく遠い距離があったはずだ。それはある年代のひとなら判ってもらえる感覚だとおもうが、それでトシはとりたくないものだ、などとは毛頭思わないし、厳格で非情な線引きは常に必要だと考えている。もちろんそれはどちらの立場に在ったとしても、だ。
 とりあえず、友達だった伊藤秀世ふうに言わせてもらうなら、「ジェシ・ウィンチェスターとクセナキスを同じ次元で聴けてしまう感性など、あいにくと持ち合わせていないのだ」

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