sixteen again

ピートがピーターより先とは思わなかったよ。10代の頃、オンリーワンズとバズコックス、どちらも好きっていう友達は結構いた。もちろん僕もそうだった。
what do i get?

Share Button

comic book fantasy

そういえば西武新宿駅の出口付近に大きなパチンコ屋のビルがあってそれがエスパスというんだ。
J-POPが大音量で垂れ流される大型ビジョンの向かいで人がひっきりなしに吸い込まれていくパチンコ・エスパス。
エピファニーとしては上出来だよね。

Chereeを聴いているとクリスマスを想い出す、と言ってた友達がいたな。もうそんな季節なんだね。

Share Button

昏睡

 それは延命治療のようなものなのだ。ある者たちは「高度な政治的判断」に基づいて考え抜いた次の一手にちょっとした言い訳を付け加えることを忘れず延命を図り、ある者たちは単純再生産の場を日々の糧として疲弊消耗しながら多少の色の濃淡でせめてもの延命を望む。またある者たちはもう2年も前のモードを纏いながら等身大性を主張し、その無残さには気づかない。同じ時代を生きて来た者たちだけを招いて当時の服装のままでささやかなホームパーティーを開く者たちもいた。それらはもちろん責められることではない。「もう飽きた」という無自覚で強烈な一言に対抗する術など誰も持ち合わせてはいないだろうし、起死回生の劇薬も欲してはいないだろう。

 爛熟期の甘美さ、といった感覚はそれらの音楽から嗅ぎとることができない。あるのは無表情で漠然とした期待、そしてそれに見合う代価を支払うべきか否かという無言の圧力から体をよじり矛先をかわし、致命傷を避けようとする負け方の選択肢か。
 批評、批判は外からも内からも聞こえてこない。延命治療を断れるのはまだ意識があるうちは当人、そうでない場合は近親者に限られる。

Share Button

魅惑のムード音楽

 あれは80年代末だったか90年代初頭だったか。あてもなく吉祥寺界隈をブラブラしたあと友達が働いていたレコード屋のドアを開けると彼は簡単な挨拶を交わすやいなや「これ知ってた?」と一枚のレコードを手にかざして見せてきた。近寄って見てみるとそれは70年代によくあった類のムード音楽、映画音楽などのスタンダード曲をレコード会社お抱えの楽団に演奏させた廉価企画盤の2枚組LPだった。ジャケットは当時の海外人気女優のお手軽なスナップ写真、いかにも廉価盤といった安っぽさで、エサ箱の中にあってもわざわざ手に取る人はまず居ないだろうと思わせるシロモノだった。「これがどうしたの?」と訝しがる僕に彼は「まあ中を見てみなよ」
 2枚組の見開きジャケットを開くと「いそしぎ」だの「枯葉」だの「スターダスト」だの収録曲目が並び、表ジャケットと同じ女優のカラーポートレイトが綴じ込まれている。それをめくると細かい字で印刷されたライナーノーツが現れた。「小説 ひまわり」「エッセイ 記憶の水たまり」と題された短編と散文のようだった。「最後の方、見てみなよ」と言われて目を移すとそこには「間章」のクレジットがあった。えっ、と驚く僕に彼は笑いながら「ビックリでしょ。オレも驚いたよ。買取で入った中に混じっててさ、こんなもの絶対売れないから捨てようと思ったんだけどたまたま中身確認してたらこれだもん。それにしてもどうしてこんなバッタ盤にライナー書いたんだろうね。それ、どうせ捨てるつもりだったからあげるよ。オレ、もうコピーしたし」
 家に帰って読んでみるとこれは他所からの転載ではなくこのアルバム用に書かれた文章だった。極力平易な文体で書かれたそれはいつになく感傷過多で、しかしながら特にメロディと記憶についてのエッセイには胸が詰まる思いがした。
 それにしてもそれが仕事だったとはいえなぜこのような誰の目にもつかないようなところにこのような文章を書き残したのかは謎だったが、晩年彼がロックマガジンに寄稿したマーク・ボランに関する文章にこういうような一節があったのを思い出した。「私は電気の武者やタンクスを中古レコード店で500円ぐらいで買ったのだがその時心底私はマーク・ボランの存在のアイロニカルなことに驚いたものだった。彼は一度は世に受け入れられた。しかしそのことによって逆に彼は彼の本質や決して世に受け入れられることのありえないものを永遠に隠しおおせたのだった」僕はそのようにして偶然このレコードに出会ったのだ。

 小学生の頃からモダーンに来ていた岩田くん(彼は10代の頃から間章に傾倒していた)が亡くなった。昨年、生悦住さんの逝去をきっかけに30年ぶりに連絡が来て(彼は40代後半になっていた)一緒に何度か遊びに行き、松谷と3人で生悦住さんの墓参りにも行って、夏前に「またもう少し涼しくなったらね」と別れたのが最後だった。

 間が最後に寄稿していたロックマガジンの阿木譲も亡くなった。学校の帰りに寄った書店で偶然見つけたのが創刊第2号だった。その表紙を描いていた合田佐和子(僕と同郷だった)ももう居ない。

Share Button

どちら?

Share Button

rescue from oblivion

しばらく自室の棚の奥で忘れられていた音盤を救出。

PEPE DELA MATRONA

フラメンコの大物カンテ。大昔に小杉のsouthのレコードをプレゼントしたことを覚えていた林嗣が10年後ぐらいに突然お返しにくれたレコード。プレスはル・シャン・デュ・モンドでライナーノーツはクセナキス。

FREE IMPROVISATION

ドイッチェ・グラモフォンの箱入り3枚組LP。3つのグループがそれぞれLP1枚に収録。グロボカール/ポルタルのNew Phonic Art、ベイリー/ラザフォード/バリー・ガイのIskra 1903に加えてマイケル・ランタとコニー・プランクが組んだWiredの多分唯一の演奏が。

OPIUM FOR FRANZ

レイシーとのFlapsに続くフランツ・コグルマンのセルフ・リリース盤。ビル・ディクソンとの連名でインパクトあり。ジャケは一枚一枚手書き。80年代にビル・ディクソンがらみということで探したことを思い出した。ディクソンがらみといえばMarzette WattsのSavoy盤、これもその頃の探求盤だったが荻窪月光社にて千円で無事捕獲。

FOLKE RABE/BO ANDERS PERSSON

これは80年代初頭に買った。しばらくして(80年代半ば)全く別文脈でInternational Harvesterを知り、そのすぐ後、目白の滝沢くんのお店(というか部屋)で「このバンド、このあと名前が変わって沢山出してるよ、プログレの人(正統派プログレ系のお客さんの意)は買わないから安くていいよ」とTrad Grassを4種類ぐらい売ってもらった。さらに半年ぐらいしてこのラーベ/ペルッソンのレコードについていたライナーをよく読んでたら「これは67年の作品で、ペルッソンはこれを最後に作曲をやめてスウェーデンのフォークロック・グループでギターを演奏しているとのことだ」と書いてあって、このロックグループというのがこれか、と全て繋がった。インターネットのなかった時代にはこういう発見にいちいち興奮したものだった。

ANTOINE TOME LES CHANTS DU COEUR

これも80年代に滝沢くんのお店で。廃墟に佇むモノクロのポートレイトに惹かれて購入。
Sonorhcのメンバーやアリエル・カルマのファーストでギター弾いてた人も参加。ノワールな民族音楽と実験性、フォークロックの融合とか言えば言えるだろうけどそんな感想は野暮。歌唱もいいし、これが好きな人は結構いるはず。

MARK DAGLEY SHUT IT UP

80年代に予備知識なく勘で買ったレコード。10年ぐらい前にDJに誘われてやりだした頃に持って行ってかけたら次の出番だったカジワラトシオくんが飛んできて「僕もこれ持ってきたよ」と。トシオくんのDJは、どこに居てもストレンジャー的な彼のスタンスをリアルに体現しているようで印象深かった。

DREAM WEAPON

AspenマガジンのNo.9(1970年)。Spontaneous SoundことChristopher Treeの両面フォノシート付きでAngus MacLiseも参加している。LPも持っていたがいつの間にか盤にヒビが入っていた。15年ぐらい前、この人の映像をNYのソーホーにあったティム・バーンズの編集スタジオで見せてもらったことがある。その日、WFMUで見つけたMadrigalの自主LP(近年再発されたNYのベースメントなエレクトロフォークロック)に彼が特段の興味を示していたので帰国したらCDに焼いて送るよ、と言ったまま忘れてしまった。ティムとは東京、大阪でも何度か会ったが今はどうしているのか。

Share Button

new sights for old sounds

Share Button

at the end of the year

will next year be your year, it’s got to be your year.
not my year.

ciao!

Share Button

幕間

 客入れはチェット・ベイカー・シングス、演奏終了時はタイニー・ティムのWhat The World Needs Now Is Love、これは80年代の最初のライブの時から決めてあってほとんど変わらなかった。
ただでさえ少なかった客の中でそれに気づいた人がどれだけ居たかはわからない。

 それは僕(ら)の立ち位置、そしてどこからやって来たのかをしれっと提示するある意味わかりやすい暗号としてあったので人任せにして無関係な曲を垂れ流すわけにはいかなかったし、その間に挟まれた僕らの演奏はそれを証明せんとする手立てのひとつだったとは考えられるが、結局それ以上でもそれ以下でもなかった。
と、今となっては思う。

Share Button

from room 109

at The Islander on Pacific Coast Highway

Share Button