あれはバンドを始めるかまだ始めてなかった頃か、80年代はじめの方だったとおもうが友達の小野幸生から連絡があって、最近夜中の旗ふりのバイトで町田(町蔵)と知り合って仲良くなった、こんど国立で別の友達の引っ越し祝いがあり、町田も来るから遊びにこないかという事だった。ひとりで国立あたりまで行くのも面倒だったので坂本哲也に電話したらヒマだから行く、というので一緒に行くことになった。
坂本哲也の姉は坂本ナポリ(本名)といって日芸在学中に山崎春美と知り合い、JAMやHEAVENに「ナポリの夢日記」を連載していた。その絡みからか弟の彼も初期の腐ってくテレパシーズに参加したりしていたが、坂本が居た頃は山崎がボーカル、角谷がギターでドラムの女の子が上智だったので大学のサークルを借りて練習していたそうだ。そういえば一度、坂本哲也の描いた絵がHEAVENの最初の頃の号にカラーで載った事があったが彼の家に遊びに行くとそのキャンバスはベランダで雨ざらしになっていた。もうその頃は、姉弟ともにその界隈とは疎遠になっていたようだが僕と知り合ったあたりから坂本はまたバンドをやろうかなと言い出していた。ナポリは「洋ちゃんと哲ちゃんがやったら絶対面白いよ、やりなよマネージャーやるから」などと焚き付けるのだった。実際しばらくあとに松谷が加わって体制が整った頃「新宿ロフトでやりたいな」などとまったく無名のくせに生意気な事を言っていたらナポリは本当にロフトでの主催企画を取って来た。あとできいたら僕らの企画をやるかわりに彼女が勤めていた音楽事務所から当時人気のあったシーナ&ロケッツが別日にワンマンをやるという条件だったそうだ。まことに申し訳ない。
話を戻すと国立は当時ペンギンカフェという喫茶店に2、3度行っただけでほとんど知らない街だったが小野が駅まで迎えに来てくれた。小野にその友達はどういう人なのか、ときくと、面白いひとだけどすごい酒飲みで「太宰は決して酔い潰れなかった」とか言いながらいつも酔い潰れてる、というので僕と坂本は面白がって便宜上、太宰と呼ぶことにしたが本当は三谷という名だった。
家に着くと黒っぽい格好の人達が集まってGreat Rock’n Roll Swindleのビデオを見ていた。しばらく後になって気がついたがレッドや光束夜の金子寿徳、高橋幾郎も居たとおもう。
その古いけれど広い一軒家は三谷と彼女の藤沢みどりが借りたようで、僕らはしばらくダラダラだべったり飲んだりしていたが段々退屈してきたので夕方前には帰る事にした。結局町田は来なかった。
後日、また小野から連絡があって先日の藤沢みどりと一緒に僕の家で彼等の制作した8ミリ作品上映会をしたいという。何日かして小野と藤沢はそれぞれの作品と映写機、酒を大量に持ってやってきて僕の部屋の白壁に映したのだが上映もそこそこに飲みはじめ、あっというまに泥酔して面倒な事になりそうだったので夜半には追い返したのだった。
随分あとになって仙川ゴスペルで自分のバンドがマヘルと対バンしたとき三谷と久しぶりに会った。彼はマヘルのベーシストになっていた。藤沢はしばらくして宝島かどっかから本を一冊出したときいた。その頃新宿で一回会った事があるがその後は知らない。
小野はそのあと写真をやりだしてシティロードでバンド系のアー写やライブを撮ったりしていた。評判も良かったようで、エンケンのやたら大きいジャケットのCDの写真や、フリクションとか色々なミュージシャンから写真を依頼されていたようだ。ちなみに僕らの最初のLPのジャケット写真も小野である。そのうち当時日本に居たジョン・ダンカンと知り合って一緒に屠殺場まで写真を撮りに行ったり、すとれんじふるうつのあった鶴巻温泉あたりでウロウロしてたり新宿ロフトでホモ系芝居に出たり写真の方のパトロンがついて表参道で個展をやったりしてたが今はどうしてるか知らない。
僕らはいよいよバンドをやる事になってベースが居ないので坂本が高校の同級生の中越を呼ぶ事になった。ある日3人で吉祥寺のぎゃてぃに「サイケデリック・スピード・フリークス」というイベントを観に行った。そのイベント名は科伏氏がJAMに連載していたサイケ記事のタイトルだったので、これは、ということになったのだとおもう。客は僕ら3人のみ、よく見ると「サイケデリック・スピード・フリークス」というのはイベント名ではなく出演するバンドの名前だった。あとになってそれがのちのハイライズの前身だったと知った。光束夜も出ていたと記憶する。ぎゃてぃには同じ頃メルツバウ&NULLを観に行ったがそのときの演奏と音圧には驚いた。いまは安易に爆音とか轟音とかいうけど、そのときのライブを越える音量、音圧のライブはいまだ聴いた事がない。
でも僕らはその頃、ノイズでも文学系でもないやり方を探していたのだった。