ワカモノたち

 思い起こせばロックはその誕生から全盛期(と呼べる時期があったとするなら)に至るまで一貫して10代から20代半ば、所謂ワカモノの為の音楽だった。自分の体験した70年代〜80年代を取ってみても、英国ロックのパープルやツェッペリンのようなハードロックは勿論、日本で特に人気の高かったプログレ系、フロイド、イエス、EL&P、クリムゾンの売り上げは当時のレコード会社のディレクターによれば僕らのような中、高校生に依る所が大きかったという。当時は難解と言われてあまり売れなかったドイツロックもやはり購買層は学生がメインだった。当時発売された日本盤レコードのライナーノーツを読めば判るがそこには美術文学映画との関連性などが提示され、それこそ10代の少年少女にとってはやや難解な、しかし抗いがたい魅惑の世界が存在するような気にさせる何かがあったのだろう。
 一方米国ロックやSSW系はニューミュージックマガジンの影響もあって(それでも読者コーナーの投稿者はほとんど10代だった)やや年齢層が高く高校生から20代半ばまでのファンが大半を占め、やがて70年代後半にAOR、その名も”アダルト”・オリエンテッド・ロックという和製英語に代表されるように大人の聴くポピュラーミュージックとして分類されていく。70年代後半、ハードロックやプログレの行き詰まり感と高齢化(といっても30過ぎぐらいだが)がピークに達したとき10代によるパンク、ニューウェイブのムーブメントが勃興した、というのが教科書にも載っているロックの栄枯盛衰の中核を成す物語だろう。
 日本においてはその最後の徒花が80年前後のサブカルチャー百花繚乱であり、新人類ともてはやされた10代のコドモたちがドゥルーズやバタイユとスロッビング・グリッスルの親和性を語ったり「金属バット殺人の浪人生はホワイトハウス聴いてたんだって」というような今では都市伝説化した妄想が日常的に話題になったり、今はなきCISCOの80年の広告には「今、CISCOではLAFMS! ゲーリー・ニューマンやMを語るひとは居ません!」とマニフェストされていたり、HEAVENや遊が一般書店で平積みになっていたり、ピンチョンのVを小脇に抱えてないと公園通りを歩けなかったり(ウソですよ)という先鋭・新感覚・アカデミズムのファッション化が著しかった事は以前も書いたが、その対極では、なんクリやサーファーに代表される西海岸カタログ文化を日本的に展開した極端な保守的嗜好も蔓延し(音楽の好みもAORでありSSWでありブラコン)、それぞれ反目しあったりしていた。小西康陽がのちにこの時代の渋谷を中心とするサブカルやセゾン文化を「いまいましいと思っていた」というのはよく判るし、それとは正反対の吉祥寺マイナーなどを中心とするアンダーグラウンドの連中もこのサブカルの動きをいまいましいと思っていたはずだ。
 そういった文化的流行がそれこそ「なんとなく」廃れてきて、飽きられてきた85年、当時のG5によるプラザ合意のあと一瞬にして雲散霧消した、というのも周知の事実だろうが、ちょうど10代後半~20代前半だった子供達も20代半ばを過ぎ、街に溢れるコピーも「不思議、大好き」とか「おいしい生活」とかだったのが「そろそろ、次のこと」になっていったのがこの頃だ。
 
 そう、ロックはワカモノの為のものだった。時代を遡ればピンク・フロイドのファーストはシド・バレット21歳、ティラノサウルス・レックスのファースト、マーク・ボラン21歳、クリムゾンキングの宮殿はロバート・フリップ23歳、ソフト・マシーン・ファーストはケヴィン・エアーズ24歳の時の作品だ。そもそも、ひと世代上のロッカーは30前に死ぬものだと教わっていた。おっさんになっても無邪気な少年性を要求される今の業界からみれば笑い話だが(だが実際はそういったクリーンなイメージ戦略が主流になった渋谷系の頃から現在の邦ロックとか毒の無さそうな文系インディーズに至るまでバンド関係の連中が実生活でヤッテる事は60~70年代のミュージシャンとあまり変わらない。ただそういう「ヤバそうな」「スリク感」を匂わす事が、メディアに載せて行く上で逆効果になってきたので表に出さなくなっただけだ。不良性をプッシュする手法はヒップホップやラップに受け継がれていく)。
 79年に神大の学祭で観たオールナイト・イベント、electric circuitにはフリクション、デビュー前のヒカシュー、阿木譲のヴァニティからアルバムをリリースしたDADA、8 1/2、連続射殺魔、メトロ(東京のバンド。一番印象に残っているが作品は何も残してないはず)、バナナリアンズ、シナロケなどと並んで当時ニューウェイブに傾倒しつつあったムーンライダースも出演していたが、メンバーは当時まだ20代後半だったにも関わらず満員の客席からは「ジジイひっこめ」などと野次が飛んでいた。若くなくては作れないし、作ったとしてもおっさんでは説得力が無い音楽スタイルというのもあってそれは今も昔も変わらない。ましてパンクの様な大きな潮目の変化があった後では尚更だ。
 ちなみに翌年の神大をはじめ横浜国大、慶応日吉ではラリーズ、灰野敬二、タコ、パンゴなども出演したがこの時期、都内や関東近郊大学の学祭はこれらアンダーグラウンド勢が大挙して出演する事が多かった。だがそれはせいぜい2~3年しか続かなかったし、ここに書いているようなことはこの時期に東京や関東近郊に居て時代の移り変わりに敏感だった人以外には、たとえ同世代であったとしてもリアリティは無いかもしれない。勿論、関西にも似たようなシーンがあったことはドッキリレコードや幾つかの自主盤を通して知ってはいたのだが。

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