煌めくドイツ・ロック

 ジャーマン・ロック(またはドイツ・ロック)がクラウトロックという呼称で世界的に定着して久しい。元々アメリカでは70年代からそう呼ばれていたがそこにはドイツ人のやってるロックだってよ、みたいな蔑称的な意味合いが強かった。
 日本ではその昔からジャーマン・ロックは所謂プログレッシヴロックの中でもリスナーの間で評価は高く、70年代でプログレといえばブリティッシュ・ロックとジャーマン・ロックだった。タンジェリン・ドリーム、カンやアモン・デュール2は東芝からLPが発売されたこともあったしブレインの権利を持っていたテイチクからはグルグルやグローブシュニットなどが当時発売されていた。アモン・デュール2が「神の鞭」から「ライブ・イン・ロンドン」までの全アルバムがほぼリアルタイムで日本盤でリリースされていたのは今となっては驚異だが、それでもやはり数少なく高価な輸入盤でしか聴けないものがほとんどだった。
 74−75年頃、マニアックにロックを聴いていた中学の同級生が2人居て、学校の帰りはだいたい3人で行き着けのレコード屋でタムロしていたのだが、日本盤LPのライナーノーツや、たまに音楽雑誌に載るドイツロックの記事に取り上げられていた国内未発売のレコードが聴きたくて仕様がない、なんとかならないか、とみんなで店長に陳情したことがあった。その若い長髪の店長は「気持ちは判るけど難しいよ」と言って首を横に振ってたのだけれど、ある日、いつものように学校帰りに店に行ってみると「ドイツ・ロック・コーナー」が出来ていたのだ。どういうルートを使って仕入れたのか知らないが、そこにはアシュラ・テンペルや、ハルモニアの洗剤、クラスターの星ジャケをはじめ、見た事の無かったジャーマン・ロックのレコードが大量にあった(テイチクからクラスターやハルモニア、ノイが国内発売されるのはもう少し後になってから)。勿論全て新品である。さすがに無理をして仕入れたのか値段は高く、たしか1枚¥3500〜¥4000ぐらいはしたので友達と手分けして買う事になり、僕はまずアシュラ・テンペルのセカンド、Schwingungenを買った。新品にもかかわらずプレスが悪く、静音部が多い為プチパチが目立ったが聴けるだけでありがたかった。聴いていて感じたのは初期、特に「神秘」の頃のピンク・フロイドの影響が思った以上に大きいということだった。クリーム地にオレンジで描かれたジャケットのドローイング自体がフロイドの「モア」の裏ジャケがモチーフになっていたし、「神秘」のタイトルトラックそっくりの曲もあった。そういえばタンジェリンのファーストにも同じようなパートがあったと記憶する。
 ノイを最初に聴いたときは爆笑した。「NEU2」だったのだが針を落としてしばらく単一ビートが続くので一緒に聴いていた弟と「これ、このままで終わったりして」と言っていたら、多少音量が上がったり下がったりしたが本当に展開も歌もなにもなく終わってしまった。こんなのは聴いた事がなかった。高校の頃、地元のテレビ局の夕方のニュース番組のオープニングに「NEU75」の一曲目が使われていたときも仰天したものだった。誰かマニアックなディレクターが居たのだろう。
 
 あれから幾星霜、ジャーマン・ロックは90年代アメリカで再評価されて以降、現代の音楽に影響を与え続けるオリジンとして語り継がれているが、メンタルと肉体の過酷な実験の場であった当時のジャーマン・ロックが音響の面白さのみを軸にもてはやされているのをみていると、名称が「クラウトロック」になった時点でなにか重要なものが抜け落ちてしまったような気がしてしまうのだ。それは個人の聴き方の微妙な嗜好の取捨選択が実は全体を決定してしまうという、その個々の色のようなものが情報の過剰さによって希薄になってしまった事によるのかもしれない。立場上、そういった動向に目配せしておかなければいけない人もいるだろうが、僕は幸か不幸かそういう場所には居ない。現象としては面白いかもしれないが共感はできない、ということだ。
 
 当時のジャーマン・ロックの本拠地、中野レコードと青山のパイド・パイパーハウスの間には実際の距離以上の限りなく遠い距離があったはずだ。それはある年代のひとなら判ってもらえる感覚だとおもうが、それでトシはとりたくないものだ、などとは毛頭思わないし、厳格で非情な線引きは常に必要だと考えている。もちろんそれはどちらの立場に在ったとしても、だ。
 とりあえず、友達だった伊藤秀世ふうに言わせてもらうなら、「ジェシ・ウィンチェスターとクセナキスを同じ次元で聴けてしまう感性など、あいにくと持ち合わせていないのだ」

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cool as ice

シスター・レイは、黒人音楽であるブルースやR&Bから派生し、そこからどうしても脱却することができなかったロックミュージックが初めて産みだした、まったくグルーヴもスウィングもしないゴミ屑のようなヘヴィメタルミュージックだったというようなことを誰かが言っていた(記憶違いかもしれない)。
 そしてスーサイド、ネオン・ボーイズ、初期のテレヴィジョンを経てNo New Yorkにたどり着いた時点でその流れは終わってしまった。
勿論同時期にはリス・チャサムもグレン・ブランカも居たけれど彼らは出自がまったく違って単なるガキやチンピラではなかったし理論にも技術にも長けた大人だった。ブランカのTheoretical GirlsがNo New Yorkからオミットされたのもイーノの嗅覚がそうさせたのかもしれない。
 No New Yorkの乱痴気騒ぎが一瞬で終わったあとルー・リードはバイノーラル録音も空しくダンゴのように煮詰められたストリート・ハッスルとベルズをリリースする。この2枚は60年代末から連綿と続いてきた所謂ニューヨーク・ロックの極点であり終着点だった。それ以降は憧憬とともに短かった季節を振り返るか、いち早く死者の墓を暴く事で新世代の敬畏を集めるのに躍起になるようなひとたちが主流になっていってしまった。

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days of the xtabay

 興味深い雑誌やwebの記事を見つけたらお互い連絡する事になっている某サカモトが「これ面白かったですよ」とメールをくれて、読んでみるとハイファイの松永氏が「Home Made Records 1958-1992」という本の著者のJohan Kugelbergにインタビューした記事だった。僕はその本は未読なのだが、どうやら50年代から90年代に、アマチュアが自主制作したレコードを紹介したガイド本ということらしい。以前も書いたようにレコード・ガイドやカタログ的な本には興味が無く、なんだかなーという感じだったけど、そのインタビューを読む限りではなかなか面白そうなので機会があれば手に取ってみようかと思っている。
 というのも、そのインタビューの中で著者の最大の協力者として出て来るのがPaul Majorというレコード・ディーラーで、僕は彼が最もアクティブにディーラー活動をしていた80年代後半に知り合った。その頃彼はsound effectsというレアでオブスキュアなサイケのレコードの通販リストを発行していて、僕はカスタマーだったのだ。ポールは当時誰も知らなかった60〜70年代の自主制作盤を発掘してきてはそのジャケットに載っている住所や氏名を頼りにメンバーや関係者を探し当て、残っていたデッドストックをまとめて買い取って自分のリストで売っていた。今では有名になったIndexやNew Dawn、Stone Harbour、UKのDark、更にマニアックな、彼が「real people」というネーミングを与えて広めた変わり者のレコード、Peter GrudzienやKenneth Higney、Bob Trimbleなども発掘していた。今や伝説となってしまったあのShaggsも彼の初期の発掘だったんじゃないかな。
 そのインタビューでも語られているようにポールのレコードの説明文は独特で読んでいるとどのレコードも素晴らしく思えて来るから始末が悪い。もちろんインターネットもサイケデリック系レコードのガイド本も情報さえもまったくと言っていいほど何もない時代なので取りあえず説明を読んで気になったら買って聴くしかないのだが、なにせ値段がとんでもない。円/ドルのレートもそれ以前に比べて下がってきたとはいえ、まだ1ドルが150円前後だったし、延々と続く絶賛文の最後に付けられたプライスは数百ドルから千ドルを越えるものも珍しくなかった。載っているレコードの多くは見た事も聴いた事もない自主盤で妄想は膨らむ一方だが、冷静に考えてみればどこの馬の骨とも知れぬ奴が作ったようなレコードに、ハイわかりましたと巨額のお金を払える訳がない。するとポールが「こういう日本のレコードを探してきてくれればトレードするよ」というので今度は彼のウォントを片手に都内のレコ屋を回るハメになる。70年代前半の所謂ニューロックとかGSは知っていて、まだ安く見つかる事も多々あったが、80年代当時、名前も聞いた事がなかったJustin Heathcriffって、コレはなに?とポールに尋ねるとイギリス人が70年代初期に日本で制作したアシッド・フォークだ、という。洋楽のコーナーを探しているうちに続けて何枚か1000円ぐらいで見つけたのだが、邦楽に詳しかった友達に訊いたところ、実は喜多嶋修の変名アルバムだと言う事だった。東京の中古屋がそのLPを洋楽のコーナーに選別していたように、まだ情報が糸電話レベルの時代で、海外のトップ・ディーラーでさえそんなものだったのだ。
 そんなこんなでいろいろと苦労してトレード成立、入手したはいいが、「コレ、こんな内容でこの値段?」というのも結構掴まされたものだ。勿論その逆もあった。例えばVirgin Insanityは今では再発され聴けるようになったが最初に見つけてきたのはポールだった。リストの、dreamy & obscure late night magic in the most basement sounding way…というタタキ文句に煽られて、$200ヴァリューぐらいのトレードで入手したとおもう。今ではサイケ系のみならず重箱の裏側まで、ほとんどが再発されており容易に聴けるようになったが、さすがにあの当時と比べると隔世の感があるのは否めない。
 ポールはその後、もうひとりの米サイケ自主盤のトップディーラーだったGreg Breth(ちなみにイギリスでのこのジャンル開拓第一人者はあのPsychoレーベルで80年代初頭にいち早くサイケのブート再発をリリースしていたMalcolm Gallowayで、KentでFunhouseという小さなレコード屋をやっていた)と組んでXtabayという究極のコレクターズ・ショップを始めて通販リストも出していたがやはり、というか、すぐに仲違いして袂を分かつことになる。余談になるが90年代初頭に後のMajor Stars、当時Crystallized Movementsのギタリスト、Wayne Rogers(彼もサイケ、ガレージのコレクターで、ボストンでレコードショップを運営していた)とForced Exposure誌の編集長によるサイケ・ノイズ・ユニット、Vermonsterが「Spirit of Yma」というアルバムを出したが、これは前述のポールとグレッグのショップ(通販リスト名でもある)、Xtabayへの皮肉、というか、かなり痛烈な批判で、表ジャケでは彼らのショップ名の元ネタであるイマ・スマックのVoice Of The XtabayのLPジャケットにナイフを突き立てたもの、裏ジャケは女の子がMorly GreyのポスターをバックにWendy & BonnyのLPジャケットを持ってポーズをつけているものだが、80年代当時、東京の某中古チェーン店にもBob Smithなどと並んでシールドのデッドストックが安価で沢山あったWendy & Bonnyを、Xtabayで「Pet Soundsを想起させるサイケ・ポップのレア盤」と称して高値で大量に売った事に対するあてこすりのようなデザインだった。付されたライナーノーツはXtabayの通販リスト説明文の常套句のパロディで、バンド名のVermonsterというのはグレッグが80年代半ば、地元Vermontで誰も知らないレアな自主盤を通販で高値で売っていたときに彼に付いたニックネームだった(レア盤の事を「モンスター」と形容し始めたのは彼だろう)。
 ポールとは当時は手紙と電話(国際電話は高かった。。。彼はFAXを持っていなかったので)のみでの付き合いだったが、その後ニューヨークに遊びに行った折に2度ほど会った。
 何年かしてゆら帝のNYライブに同行した際、リハで楽屋に居るとポールが入って来た。お互い、「お前、なんでここに居るの?」と驚いたが、彼はなんとその日の対バン、Endless Boogieのリーダー兼ギタリストだったのだ。更には最初の方に書いたガイド本の著者ヨハンもそのバンドのメンバーだった。
 今はあまり付き合いも無くなってしまったが当時仲が良かったディーラーで鬼籍に入った者も少なくはないし、このインタビューで元気でやっている事が判っただけでも良かったと思っている。

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living sickness

 70年代末から始まった60年代ガレージパンクへの再評価(もちろんその先達としてレニー・ケイのナゲッツがあるのだが)は今は一段落した感があるけど90年代あたりまではそれなりに熱い季節があった。
その頃、僕らの周り、という極めて狭い括りでもモダーンミュージックのハウスマガジンであるG・Modernにガレージパンクの記事を連載していた岡田くん(有間凡)の斬新な視点と影響力で既に入手困難だった初期ガレージコンピのLPを集めだす人が何人もいた。
 ある短い時代の、それも十代の少年少女たちの集合的無意識から湧き出てきた、一過性の現象としての60年代ガレージパンク、それに関する膨大な知識に裏打ちされた、ラフ・タフ・ワイルドだけではないガレージパンクの捉え方を提示し、海外の伝説的ロック・ジャーナリスト達の重要文献の邦訳、コルタサルやパヴェーゼを違和感無く並列させる岡田くんの文体(彼はたしか立教の仏文出身で、「学校で間章の論文を見つけたけどやっぱりバタイユだったよ~」と笑っていた)は出色だったとおもう。大学では初期の光束夜に居た横山宏が先輩に居て影響を受けたらしく、「ある日さ~学校で横山宏が突然アロハシャツ着てきてさ~、あっ、とおもって、それってティム・バックリーのセフロニアの裏ジャケでしょ?って言ったらやっぱそうでさあ~」と笑ってた事を思い出す。あの裏ジャケの、アロハに笑顔で両手を広げた写真の持つ絶妙なニュアンスはあの頃の僕らに共通した痛痒い感覚だった。中原(昌也)も岡田くんの文章をかっていてどこかの出版社からまとめて出せればいいねと話してたけど未だ実現していない。

 当時60年代ガレージにハマっていた人には特徴があって、10代でドイツ・ロックを聴きだし、その後数年単位で→ノイズ、アヴァンギャルド→60年代サイケ、アンダーグラウンド→60年代の無名なガレージパンク、と移行して行く、というのが何故か多かった。日本で初めてのドイツ・ロック系レコードのカタログとなったロック・マガジン77年の別冊本も執筆者は山崎春美、坂口卓也、牧野美恵子でおそらく全員ハタチ前か少し過ぎたぐらいだっただろうから符牒が合う。そのころ僕らは高校生だったが、多分、岡田くんも僕もそういう流れで聴いて来ていて、例えばSunn o)))のスティーヴンみたいなひとがメタルからドローン、やがてアヴァンギャルドにいく、というのは理にかなっているというか順序として普通だとおもうが、それを逆行するような聴き方はやはり日本のマニアックなリスナー特有な現象なのか。ずっと理由を考えているんだけど説得力のある回答はおもいつかない。もちろん、10代から脇目もふらずノイズ道、ドイツロック道を邁進したひとも多く居るので一概にパターン化している、とは言えないが。
インターネット登場以降ではそういう聴き方をするひとも居なくなったような気がするし、単にあの時代の(それもすごく狭いサークルの中での)価値観だったのかもしれない。
彼は僕が店を辞めたあと入れ替わりでモダーンに入ったがその後体調を崩して実家に帰って療養中ときく。

最後の方に店で会った時、こんな本が出たよ、と岡田くんが興奮気味に語っていた、ポピュラーミュージックとアヴァンギャルド・アートの関係性を多分「場」というキーワードを足がかりに、パリの1800年代末(jazz)からニューヨークの1900年代末(no wave)を、世紀をまたいで連結させ論評したとおもわれる「ビトウィーン・モンマルトル・アンド・ザ・マッドクラブ」という、タイトルだけでもワクワクする洋書を僕はまだ読めていない。

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Contact High

 以前書いたとおもうけど74年発行の音楽雑誌(今気づいたがこの時代、中学生だった自分にとって音楽雑誌とは洋楽専門誌との認識があった)、「プラス・ワン」の特集で日本のロックのアルバム(もちろん当時出たばかりの)をアメリカの音楽ライターに聴かせて評論させる、という記事があった。フラワー・トラヴェリンやミカ・バンドのファースト、はっぴいえんどやトゥーマッチまで好き勝手にレビューされていてけっこう面白かったが、中でもスピード・グルー&シンキについて書かれたものがとても興味深かったのでちょっと引用してみる。

「スピード・グルー&シンキという、ドラッグをそっくりそのまま名前にしたようなグループには、誰だって驚かざるをえないが、事実彼らにはびっくりした。このグループはストゥージスよりナマで、初期のヴェルヴェット・アンダーグラウンドより退廃的で、ゴッズより音楽性にとぼしい〜事実、彼らの歌はどれも、歌詞からみてもサウンドからみてもニヒリズムをとおりこしている」

 海外の音楽レビューにはこういった比較/比喩の類いが多く見受けられるがこの文章から受ける異様なカッコ良さは筆者がストゥージス、VU、ゴッズ(もちろんあのESPのGodzだ)というそれぞれのバンドの、その時点でたかだか10数年ぐらいしか経ってなかったロック史に於ける固有の文脈と立脚点を割と正確に把握していたからこそ、その3つのバンドを知ってる者にとって説得力があったのだろう。VUとストゥージスが並列されることはままあったが、そこにゴッズが加わることによってこのレビューは独自のインパクトをもつ。もちろん筆者はライブはおろか、おそらくバンドに関しての基本情報も持っておらず、純粋にレコードという作品を聴いただけでの感想だ。
 当然日本ではスピード・グルーに関して今も昔もこういうレビューは読んだ事も無く、74年といえばVUは6年遅れてようやくファースト(のみ)が日本盤で発売されたばかり、ストゥージスも淫力魔人がボウイ関係という事で74年に日本発売されたが音楽性というよりスキャンダラスなステージングの方が話題になった程度(日本で現在の高評価は77年のパンク以降に定着、それまではキワモノ扱いだった)、ゴッズなんて昨今の再評価からは考えられないかもしれないが、その頃はESPの輸入盤しかなく、ほとんど誰も知らないだろうし聴いた事もなかっただろうから仕方ないといえばそうなのだが。

 坂本がよく「音楽に詳しいひとに批評してもらいたいんだよね」と言うがそれは個人の思い入れや自己陶酔的な形容詞の羅列ではなく、作った本人さえ自覚していなかったような、まったく違った角度からの鋭い見方を知りたい、という事に他ならない。(余談だがゆら帝がNYに行った時、雑誌の紹介で音楽的類似点というか影響の部分にCANみたいなジャーマンロックとか60年代サイケデリックというお決まりの他に10CCが列挙されていて、おっ、と。坂本はそれほど熱心に10CCを聴いてはなかったようだが自分は初めてファーストを聴いた中学生のとき以来、初期作品は好きだし、ゆら帝中期の楽曲に10CC的コーラスワークをアレンジで使った事があった。そういう意味で音楽集団としてのゆら帝が一番近かった存在は、いにしえのサイケやクラウトの列強ではなくヨ・ラ・テンゴだと確信する。良くも悪くも過去の音楽史への敬意を内包した、的確で効果的な引用と組み合わせの妙が本質という共通点。実は僕はヨ・ラ・テンゴをほとんど聴いた事がないが、おそらく外れてはいないだろう)
 
 それには時系列に沿った膨大な音楽知識とそれを咀嚼解析し自分なりの文脈で構築し直すという時間のかかる作業が必要となる。ブログやツイッターで一般人がそれぞれの感想を書くのはまったく自由でおおいに結構だが少なくともライターや評論家と称する、報酬が生じるタイプの仕事として、あまりにもヒドい文章がまかりとおっている気がする。プロとおもわれるライターが書いた、僕の関係する某バンドのアルバムレビューを読んだ事があるが、(それを出す事でマニアックだなと思われる事を期待した)作家の名前、必然性の無い形容詞の上塗りや硬直した文体など、褒めているのだろうけどペダンチックなだけで、たとえ文学的批評であろうとするにしてもレベルが低すぎて嫌悪感しか残らなかった。
 ある意味、知に対する恥じらいがない、ともいえるだろう。単に知っていることと、知らざるをえなかった(ところまで来てしまった)ことは違うとおもうのだ。自分も若かった頃、似たような駄文を書いてしまってあとで恥じ入った事があるので余計そうおもうのかも。

 ちなみに坂本のTV主題歌シングルをもらったとき、別に批判したわけでもないんだけれどいくつか比較/比喩を羅列してメールしたら激怒されて、唯一それは、まあいいかも、と言われたのが「下町のスティーリー・ダン」だった。

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entertainment through pain

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アパシー

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MAXI

 80年代はじめに横浜から杉並に引っ越してよく遊びにいっていた店があった。下北沢の西口近くにあったMAXIという当時で言うカフェバー(?)なのだが打ちっぱなしのコンクリートの店内には新品や中古のレコードもけっこう置いてあって、そのテの店には必ずあった大型のビデオモニターもあり、よくSPKのDespairが流れていた(そういえばTGのHeathen Earthの映像を初めて観たのは西麻布のニューウェイブ・ディスコ、CLiMAXだった)。
 
 店長の宮沢さんは以前はレナード・コーエンなどSSW好きだったらしいがパンク、ニューウェイブにヤラれて以降、奥さんもろともY’s系の細身の黒ずくめファッションに転向していた。その時代、パンク、ニューウェイブにハマってライフスタイルまで一変したひとが沢山居た。
 いつも昼過ぎから夜までレコードを聴いておしゃべりしたり友達とビデオを観ながらダラダラしていたのだが、奥さんが当時活動を始めたばかりの宮西計三バンドに入れこんでおり、その関係でバンドのメンバーやラリーズ系のひとたちなども結構来ていたようだ。宮西バンドのミーティング的な会合に居合わせたこともあるけど、その後何年かして一緒にやることになる松谷や栗原もその場に居たんだろうなと想うと不思議な縁を感じる。
 扱っていたレコードもアヴァンギャルド系やノイズの新譜が多かったので後期M.B.などはここで買った。Plain Truthを買って帰った夜、聴きながらここ何年か続いてきたものが終わるんだなという漠然とした感覚に襲われて、実際自分の中ではこの時を境に、というのがあったのだがそのことはまたいつか。(ちなみにPlain Truthと一緒に買ったのがPsychedelic Unknowns vol.1だった)
 
 記憶が正しければ宮沢さんはしばらくしてMAXIをたたんで渋谷にZESTをオープンしたはず。ここはカフェとかではなくニューウェイブ、ノイズ系の輸入・中古レコードショップだったがそれも割と短期間でひとに譲って銀座、高田馬場などを転々としながらレコード店を続けていたがしばらくして郷里の北海道に帰ってしまったときく。その後のZESTが90年前後の渋谷系のブームとともに有名店になっていったのはご承知のとおり。

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薄暮

 買ったものの聴いてないレコードが沢山ある。聴くタイミングというのがあってその時期を逃すとなかなかターンテーブルに載せる機会が無くなる。なんとなくジャケ買いすることも多々あるので部屋の隅に積んであるジャケットをチラチラ見ながら音を想像するだけで数週間ということもままある。
そして意を決して聴いてみた瞬間に妄想は終わる。
 好きなジャケット、アートワークは、みたいな話題になることがよくあるでしょ、みんなそれぞれやっぱヒプノシスだよね、いやキーフでしょ、コレですよコレ、みたいなかんじで夜は更けていくのだが、好きなジャケットと言われていつも思い浮かぶのがMartha & The MuffinsのThis Is The Ice Age、81年のレコード。
 内容は及第点のニューウェイブといった趣きでとりたててどうということもないのだが、同一アングルの写真で壁の剥がれかけた古い家の屋根と高層ビルをバックに日が落ちる前と日が昇りはじめた薄暮の時間を切り取って表と裏に配したジャケット。
 誰に言っても、ほう、とか、なるほどね…みたいな反応しか無く賛同を得られたことはない。
なんだろうなこれはと、つらつら考えてみたら大学時代に沿線に住んでいていつも使っていた東横線からみた早朝と夕方の景色にそっくりだった。

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桁落ち

 ちょっと見ない間に埋めてあった物が掘り起こされたりとっくに死んでるところを叩き起こされたりしててどうしたの、なにかあったん?と尋ねるまでもなく、誰かのホントの死をきっかけとしてタガが外れる、ということがあるんだなあ、と妙に納得。
 これからは、時間場所まで特定した上でご存じない方にはお帰りいただくとして、という風潮になるんだろうけどだったら「関係論の視座ってさ」とか「みた?NHKのイ○ーナウ」とかまで苦笑いできる小ネタもあればいいのに。一部にとっての起点なのは間違いないだろうし。
 60年代末から聯綿と続いた「ロックと私」にまつわるひとりがたりがニューヨークパンクの等身大性やフリージャズの速度という免罪符を得て、不可視だったものがやがて青臭いゼリー状の固まりになっていくのを見ていた10代は多いはず。
 「ノイが腐ってくようなのがやりたい」とK谷が言ってた頃のノイと今の(もうとっくにないけど)ノイでは在り方も意味も違うし、アイヴァースが初めてJamで紹介された時、レビュー中にルイス・フューレイの名前があったことで決定的になってしまったことも演奏者にはまったく無関係な「こちらの事情」でしかないし。
そんな「事情」をいま、噛んで含めるようにして説明する意味?
だって、これも全部嘘かもしれないって言ってたじゃん!

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