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a new career in a new town

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30 odd years

 それはかつては暗渠のように張り巡らされていた。いまはもう無い。自己、といえばそれは拘泥であり、他者からの見え方、振り返った肩越しにぼんやり映る顔の無い連中の気分を察しながらそいつらとの折り合いを付けて行く作業に従事するもの、に過ぎない。もちろん本人は一歩先に出なければ意味が無い、のだろうけど。
 でもそれは出たつもり、であればそれでよくて、ここに目をつけ(てみ)ました的な、イヤミにならない程度に留めておくチープなスマートさは100円ショップのようだ。

 例えばヴィック・ゴダードはそういう策謀や戦略とは無縁な場所に存在し続けてきた。
76年にサヴウェイ・セクトとして最初期のUKパンク、ダムドやピストルズ、クラッシュと同時期に活動を始めながらマネージャーの気まぐれから録音したアルバムは発売されず結局シングル2枚残して解散、それからはバンドを再編しつつポップで奇妙なフォークロックとフェイクジャズの折衷みたいなアルバムを制作、「台所で料理中の主婦に聴いてもらう音楽をめざす」とか「トレンディな客には興味は無い、むしろ中年に聴いてもらいたい」などと言って、客入れではドビュシーを流していた。
 80年代途中に興味が無くなったのかいつのまにか引退、ハンバーガー屋で働きだして店の娘と結婚、その後は郵便配達人に転職した。
ジョニー・サンダースが死んだので郵便局仲間とトリビュートの曲を作ってなんとなく復活、そのあとはあのマーク・ペリーとバンドを組んだり、とりたててトピックになることもないけど消えもしない、ゆるく浮かんだり消えたりを繰り返しつつ今に至っている。
 ドラッグとか死とかいわゆる旧態然としたロックの美学とはほとんど縁のない人で、かといって求道的なところも一切無く、音楽的にもそうだけど国は違えどアレックス・チルトンをなんとなく想起させる。アレックスと違うのは10代の頃にトップ・ヒットを出していない事だろうか。
ちなみに僕はビッグ・スターよりアレックスのソロの方が100倍好きだ。

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liquid air

なんとなくピンク・フロイドの68年、パラディソのライブ盤(ブート)を聴く。バレットが居なくなった直後で総員疲れ果てていたのかバラバラ。方向性は決まっていたようだが手法的に無理があり、なんとなくただ抽象的なムードの垂れ流しに終始する。この1年後には未発表に終わる「The Man」組曲をモノにしてその後の成功に繋がって行く訳だが、自分だったらこんなの無断で出されたらイヤだろうな、とおもう。
学生の頃はアーティストに関わらず結構な量のブートLPに手を出していた。正規のスタジオ盤を聴いてしまうとあとはそこに行かざるを得なくて、あげく何回もスカを掴まされてほぞを噛む思いをしたものだ。世代的なこともあってビートルズやストーンズに行かなかったのがせめてもの救いだったのだろう。
しかしバレットの「unforgotten hero」やVUの「1966」テレヴィジョンの「arrow」などは音源自体が限られていた時代だったし新宿2丁目ciscoで発見したときには興奮したものだ(新品だったので内容は知らずに買った)。パティスミスはブートしか買わなかったが(アキラックスが同じ事を書いていたのは後になって知った)最初1枚もので出たロンドンのライブが2枚組になって再発されたとき追加されていた75年の「piss factory」と「horses」のライブの壮絶さ。それを聴いてしまうと76年はまだしも「easter」や78年以降のライブはカスみたいなものだった。ジョニー・サンダースは82年の「wanted dead or alive」。ルー・リードでいえば「liquid air」「some kinda love」77年の「street shuffle on 84th avenue」。ただしひとには勧めないし今さらそれを聴いたからどうなるわけでもない。知ってるひととはそのはなしが出来る、そいう程度のものだ。そういえば灰野さんと最初に話した時の話題は「アレックス・チルトンのブートLP録音してもらえないかな?」だった。なんで僕が持ってるのを知ってたんだろう。

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夏辺

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orchestra luna

こんなものが観れるとは。
長生きはするものだな。。。

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ワカモノたち

 思い起こせばロックはその誕生から全盛期(と呼べる時期があったとするなら)に至るまで一貫して10代から20代半ば、所謂ワカモノの為の音楽だった。自分の体験した70年代〜80年代を取ってみても、英国ロックのパープルやツェッペリンのようなハードロックは勿論、日本で特に人気の高かったプログレ系、フロイド、イエス、EL&P、クリムゾンの売り上げは当時のレコード会社のディレクターによれば僕らのような中、高校生に依る所が大きかったという。当時は難解と言われてあまり売れなかったドイツロックもやはり購買層は学生がメインだった。当時発売された日本盤レコードのライナーノーツを読めば判るがそこには美術文学映画との関連性などが提示され、それこそ10代の少年少女にとってはやや難解な、しかし抗いがたい魅惑の世界が存在するような気にさせる何かがあったのだろう。
 一方米国ロックやSSW系はニューミュージックマガジンの影響もあって(それでも読者コーナーの投稿者はほとんど10代だった)やや年齢層が高く高校生から20代半ばまでのファンが大半を占め、やがて70年代後半にAOR、その名も”アダルト”・オリエンテッド・ロックという和製英語に代表されるように大人の聴くポピュラーミュージックとして分類されていく。70年代後半、ハードロックやプログレの行き詰まり感と高齢化(といっても30過ぎぐらいだが)がピークに達したとき10代によるパンク、ニューウェイブのムーブメントが勃興した、というのが教科書にも載っているロックの栄枯盛衰の中核を成す物語だろう。
 日本においてはその最後の徒花が80年前後のサブカルチャー百花繚乱であり、新人類ともてはやされた10代のコドモたちがドゥルーズやバタイユとスロッビング・グリッスルの親和性を語ったり「金属バット殺人の浪人生はホワイトハウス聴いてたんだって」というような今では都市伝説化した妄想が日常的に話題になったり、今はなきCISCOの80年の広告には「今、CISCOではLAFMS! ゲーリー・ニューマンやMを語るひとは居ません!」とマニフェストされていたり、HEAVENや遊が一般書店で平積みになっていたり、ピンチョンのVを小脇に抱えてないと公園通りを歩けなかったり(ウソですよ)という先鋭・新感覚・アカデミズムのファッション化が著しかった事は以前も書いたが、その対極では、なんクリやサーファーに代表される西海岸カタログ文化を日本的に展開した極端な保守的嗜好も蔓延し(音楽の好みもAORでありSSWでありブラコン)、それぞれ反目しあったりしていた。小西康陽がのちにこの時代の渋谷を中心とするサブカルやセゾン文化を「いまいましいと思っていた」というのはよく判るし、それとは正反対の吉祥寺マイナーなどを中心とするアンダーグラウンドの連中もこのサブカルの動きをいまいましいと思っていたはずだ。
 そういった文化的流行がそれこそ「なんとなく」廃れてきて、飽きられてきた85年、当時のG5によるプラザ合意のあと一瞬にして雲散霧消した、というのも周知の事実だろうが、ちょうど10代後半~20代前半だった子供達も20代半ばを過ぎ、街に溢れるコピーも「不思議、大好き」とか「おいしい生活」とかだったのが「そろそろ、次のこと」になっていったのがこの頃だ。
 
 そう、ロックはワカモノの為のものだった。時代を遡ればピンク・フロイドのファーストはシド・バレット21歳、ティラノサウルス・レックスのファースト、マーク・ボラン21歳、クリムゾンキングの宮殿はロバート・フリップ23歳、ソフト・マシーン・ファーストはケヴィン・エアーズ24歳の時の作品だ。そもそも、ひと世代上のロッカーは30前に死ぬものだと教わっていた。おっさんになっても無邪気な少年性を要求される今の業界からみれば笑い話だが(だが実際はそういったクリーンなイメージ戦略が主流になった渋谷系の頃から現在の邦ロックとか毒の無さそうな文系インディーズに至るまでバンド関係の連中が実生活でヤッテる事は60~70年代のミュージシャンとあまり変わらない。ただそういう「ヤバそうな」「スリク感」を匂わす事が、メディアに載せて行く上で逆効果になってきたので表に出さなくなっただけだ。不良性をプッシュする手法はヒップホップやラップに受け継がれていく)。
 79年に神大の学祭で観たオールナイト・イベント、electric circuitにはフリクション、デビュー前のヒカシュー、阿木譲のヴァニティからアルバムをリリースしたDADA、8 1/2、連続射殺魔、メトロ(東京のバンド。一番印象に残っているが作品は何も残してないはず)、バナナリアンズ、シナロケなどと並んで当時ニューウェイブに傾倒しつつあったムーンライダースも出演していたが、メンバーは当時まだ20代後半だったにも関わらず満員の客席からは「ジジイひっこめ」などと野次が飛んでいた。若くなくては作れないし、作ったとしてもおっさんでは説得力が無い音楽スタイルというのもあってそれは今も昔も変わらない。ましてパンクの様な大きな潮目の変化があった後では尚更だ。
 ちなみに翌年の神大をはじめ横浜国大、慶応日吉ではラリーズ、灰野敬二、タコ、パンゴなども出演したがこの時期、都内や関東近郊大学の学祭はこれらアンダーグラウンド勢が大挙して出演する事が多かった。だがそれはせいぜい2~3年しか続かなかったし、ここに書いているようなことはこの時期に東京や関東近郊に居て時代の移り変わりに敏感だった人以外には、たとえ同世代であったとしてもリアリティは無いかもしれない。勿論、関西にも似たようなシーンがあったことはドッキリレコードや幾つかの自主盤を通して知ってはいたのだが。

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遊戯の終り

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all through the night

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inbetweens

 そんなわけで10数年、いわゆる業界的(?)なものに片足突っ込んだり横目で見て見ぬフリをしながらやりすごして来たのだが、ここへきていよいよ自分の許容量を越えて来た、というかそもそもなんでこんなところに居るのかよくわからない。いくらなんでもここではなかっただろうという苦々しい自嘲が日々増大する一方ですこぶる具合が悪い。プチ芸能やエセ業界ごっこ、セミメジャーでしかない日本のインディーがどういう層に支えられているかもよく判ったし、ここでは批判や批評というコトバ自体が無効なのもよく判った。経験としては面白かったかもしれないが居るべき場所ではなかったということかな。
 30年前に捨てたはずの手法をこのぐらいの受け皿にはこの程度の塩梅で、と再利用していくことのうしろめたさと連綿と続く墓暴きへの徒労感は本来ならクラブシーンに請け負ってもらうべきものだったが優れたDJにはある(べき)だろう引用する文脈に対する批評性が、どこまでも未熟なこの業界にはまるで欠如していた。 言い換えれば未熟でなければ存在出来ないのがこの場所であり何かを視てしまったり知ってしまったりすればたちどころに「面倒くさいやつ」として追放されてしまうのだ。こうしてAマイナーはメジャー7thに駆逐されて行く。
 なんでも知ってそうなひとは話してみると実はなにも知らない。知ってるフリをした方がここでは上位に居られるからで、突き詰めようとすると概ね面倒くさがられるか話題を変えられる。その対象に関して語るべきことなどハナから持ち合わせてないから。インターネット以前なら、一般には知られていない◯◯を知っている、ということはそれなりの時間をかけてそこまでたどり着いたということだったが現在ではただその固有名詞を知っているという事実でしかない。昔ならそれを知っているだけで一目置かれたかもしれないが今ではそういったマイナーな名前を出された瞬間に萎える。それは大概の場合、自分はこんな変わったものが好きなんですというコンプレックスの裏返しの優越性や承認欲求の道具としてしか使われていないような気がするからだ。更にSNSのようなツールの中では単にフォロワーを増やす為の検索キーとしてボロボロに使い捨てられて行く。
 そんなこと最初から判ってたでしょ、と言われれば返すコトバもないが、みなさんそんなことより「◯◯のXXさんって、最近どう?」みたいな同業者の動向や囲い込みにの方に熱心なご様子だし。
 クレジオじゃないけど、どっちつかずの無限に中間なところに居たかった自分としてはそろそろどこか別の場所に流れていきたいかな、なんてね。

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冷淡辛口

 10代の頃、雑誌で読んだインタビューで今も印象に残っているセリフが幾つかある。ひとつはデビュー前、日本でも新聞や雑誌をにぎわす以前のジョニー・ロットン(現ライドン)の「おれたちゃ全てが憎いのさ」であり、もうひとつはスーサイドのファーストをリリースした当時のアラン・ヴェガの「僕らは人生をあきらめた」だった。あとポップ・グループがデビューした時の「他人に出来ないことが僕らにできるはずがない」というのも。個々の音がどうだったかは別で、あくまでコトバとしてだけども。
 どれも翻訳モノだし、前後の文脈が不明なので活字になったものと実際のニュアンスに隔たりがありそうだが、そんなことはどうでもいい。それまでミュージシャンで「全てが憎い」だの「人生を諦めた」だの「他人に出来ないことは自分にも出来ない」などと発言しているのをみたことはなかったからだ。大概は自分を必要以上にでかくみせようとしたり、反対に謙遜してへりくだったりしたものだったので、これらを読んだ時は胸のすくおもいがすると同時にシンパシーめいたものを感じたりもした。
 
 あれから幾星霜。僕は相も変わらず世の中のほとんどの物事や人達が嫌いなのだ。誤解されたくないのでひとこと加えるなら、憎い、などというドロドロした感情ではまったくないし、例えばモツ煮が嫌いでもモツ煮が憎い、というひとはいないだろう。
 じゃあ特に何が嫌いかって?それはまた今度会ったときにでも。

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